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東海道五十三対 桑名


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【翻刻】 桑名 船のり徳蔵の伝

桑名屋徳蔵は無双の船のり之 大晦日には船を出さぬ法之けるにある年大晦日に船を出し沖中にて俄に大風大波立て大山の如大坊主先へ出でける徳蔵少しも恐れずいかちを取りに行にくだんの化物いかに徳蔵こわくはなきやと尋るに徳蔵びくともせず渡世より外にこはきものはなしと大おんによ ばわりたれはかの化物此の一言におそれけん雪霜のごとくきえうせ波風なく本の如くに船はしりとなん徳蔵が大たんのほどこれにてしるべし

絵師:一勇斎国芳

版元文字:小嶋板



【題材】桑名屋徳蔵

この徳蔵の問答は『雨窓閑話』「桑名屋徳蔵が事并妖怪と答話の事」に伝えられる。

或者の物語に桑名屋徳蔵と云者、名ある船乗りの名人にて、所々難海共を乗し事有。此徳蔵申けるは、月の晦日に出船する事、必斟酌すべしといえり、或時徳蔵いづ方にてか有けん。只一人海上を乗行しに、俄に風かはり逆波立て、黒雲覆ひ船を中有に巻きあげるやうにて、肝魂も消入べきを、徳蔵もさすがしたゝか者なれば、ちつとも動ぜずして蹲踞ける。向へ背の高さ一丈計の大入道、両眼は鏡へ朱をさしたるが如き妖物出て、徳蔵にむかひて、我姿のおそろしきやといひければ、世を渡るの外に別けて恐ろしきことはなしと答ければ、彼大入道忽に消うせ、波風も静りければ、徳蔵はからき命を助かりけるとぞ。徳蔵後に此事人に噺しければ、人皆奇異の思いをなせり。

引用:『雨窓閑話』より

この徳蔵と大入道との問答は『伝奇作書』にも記述されている。

大阪廻船問屋桑名屋何某とて有り、其船頭に海上の妙を得し徳蔵と云ふ者、大晦日の夜は渡海の船を出さぬ習ひなるを尤も拠ろなき急物にて船を沖に出す。船にあやかし付いて、今宵をいつとおもふ、又恐ろしきものはなきかと問う。其答えに大晦日合点 なり、世に恐ろしきものは世渡りなり其餘に恐るゝ物天地の間になしと云う。海上のあやしみ、この返答に消散せしとは古く人口に膾炙していつの世の人といふ事を知らず。明和八卯年春、中の芝居にて桑名屋徳蔵入船噺と外題して並木正三作せしからは是より前の人なるべし。

引用:『伝奇作書』より

さらに上田秋成随筆『諸道聴耳世間狙』(明和三(一七六六)年成立)の「浮気は一花嵯峨野の片折戸」の冒頭部分 にも徳蔵は登場している。以下は引用。

桑名やの徳蔵といふ船頭大年の夜に舟を走らせしに。いづくの沖ににてかありけん。すさまじき雲でて浪風あらく吹しかは船中大きに便りを失いしを。徳蔵舟櫓にあがりの心をもちひて下知しけるに。空中より怪しき声していかにや徳蔵。こよひはいつの夜なるぞと尋ぬれば。徳蔵少しも恐れす年の夜にて候と答ふ。妖神又。汝世に恐るゝ物ありなしやと問う。徳蔵かさねて世には見過ぎばかり恐ろしき物はなく候と申せしかば。ふたゝび声なくして風波しづまり船も思う方へ走りけるとなん。

徳蔵は当時の人々によく知られていた。

徳蔵に関するエピソードは大入道との問答だけではない。 実際の徳蔵についてのエピソードが『摂陽奇観 巻二十五ノ下』「桑名屋徳蔵廻船に妙を得たる話」に記述されている。 徳蔵は享保年間(1716~1736)に活躍した、大坂にある菱垣廻船問屋桑名屋に雇われていた航海術に長けた名船頭で、毎正月行われていた前年秋に収穫された綿の大坂、江戸間の輸送タイムを競う新綿番船の常勝者であったらしい。


徳蔵をモデルとした歌舞伎狂言『桑名屋徳蔵入船物語』も作られた。

【『桑名屋徳蔵入船物語』について】

『桑名屋徳蔵物語』は明和7(1770)年に並木正三によって大坂で上演された。 この作品は大阪で主に上演されたものであり江戸ではほとんど上演が行われなかったようである。 桑名屋徳蔵の海上での大入道との問答と讃岐高丸家のお家騒動を絡めて作られたものである。 この作品は五幕あり問答の場面は序幕である。

序幕:金比羅参拝の将軍足利義満との勅使との饗応役の若殿高丸亀次郎は、吉原傾城桧垣におぼれ、帰国の日も忘れている。家老の多度津一角は徳蔵と謀って亀次郎と桧垣の二人を長持ちに入れ、そのまま讃岐の船に乗せた。二人が揚屋の座敷と思っていたのは、実は遠州沖の船中であった。桧垣は徳蔵に殺され、桧垣の霊と徳蔵の問答が繰り広げられる。

このシーンはこの作品一番の見せ場でもあり、亀次郎が遊女たちに囲まれ盃を交わしていると思ったのは実は讃岐に向かう船の中で恋人であると思ったのは許婚の姫であった。そこで一転して船の舳にかわり徳蔵が沈めた幽霊桧垣が登場する。ほかの船頭が怖気ついてつっぷしている間に徳蔵と桧垣の問答が行われる。 大入道との問答のシーンを基にして吉原の傾城檜垣の幽霊との問答に作り変えている。徳蔵と桧垣の問答は以下のとおりである。

[桧垣]徳蔵そなたは世界に怖いという事が有か 一何が怖いぞ

[徳蔵]此徳蔵が怖ひと言ものはヲヽ主親より外に怖いものはないわい

[桧垣]其内主が重いか親が重いか

[徳蔵]ハテねちみやくな幽霊じゃ親という物は大事のものじやがその親を養ふてもらうが主じやによつて食わにや立らんといふ心でマア主が重いは

[桧垣]アノ親より主が重ひじやの

[徳蔵]知れた事

[桧垣]必ずその心忘りやんなや

[徳蔵]ヱヽ様ゝ゛の念つがいおるわい

[桧垣]それならば助てやらふ 舟に乗る事は叶わず先へ行て待て居ると言うふてたも徳蔵さらばや

引用:『歌舞伎台帳集成 第二十五巻』より

幽霊は徳蔵が忠義を誓ったのに感服し消える。この後桧垣は徳蔵たちの味方になり徳蔵たちを救う。

幽霊さえも恐れず味方につけてしまう徳蔵の剛気さがよくあらわされている場面である。


【桑名宿について】

日本歴史地名体系によると「慶長六年(一六〇一)正月、江戸幕府は東海道の宿駅を制定した際、桑名宿が定められた。」さらに「渡船場であるため、天候の都合などにより欠航する場合もあり、旅籠屋の数は隣の宮宿に次いで東海道では第二の多さである。」「江戸、上方、あるいは伊勢参宮の旅人で桑名宿は賑い、「久波奈名所図会」に「当所は旅籠屋の家数多し、飯盛の婦は行客の袂を曳て常に旅路の情を慰む」」とある。旅人が行き交いよく賑わっていた町であったようだ。渡船場であったので桑名の海を描いた作品も多数見られる。


【考察】

この絵は桑名の伝説にちなんだものというよりは桑名という地名と桑名屋徳蔵という名をかけたものであると言える。 さらに桑名は渡船場として栄えた場所で名船頭であった徳蔵とは関りがないわけではない。 桑名と徳蔵の組み合わせで描かれている絵は他にも存在している。 しかしこの絵は歌舞伎の徳蔵ではなく、実在の徳蔵の伝説を描いたものであるが伝説そのままを描いていない。『雨窓閑話』では大入道は1丈(約3メートル)の大きさで徳蔵は一人で大入道と遭遇したことになっている。この絵では大入道は明らかに3メートルより大きく描かれ、絵の端にはおびえる人々が見える。 構図は歌舞伎のものに類似が見られるように思う。 これは皆がおびえている中で少しも恐れることなく大入道と渡り合おうとする徳蔵の人一倍強い勇敢さ、豪胆さを強調しようとしたのではないのではないか。碇をしっかりもってどっしり構える描写にも肝の大きさを感じる。

徳蔵の乗る船は菱垣廻船である。これは実在の徳蔵も菱垣廻船の名船頭であることを考えるとふさわしい。

徳蔵の着ている半纏には波兎の模様が描かれている。 これは「うさぎ波を走る」ということわざがあり(白く流れ飛んで見えるところから)月影が水面に映っているさまのたとえ。また、船足などのはやいたとえ。という意味がある。 新綿番線の常勝者である名船頭の徳蔵にはふさわしい模様といえる。

徳蔵は怪異を恐れることのない剛毅な人物として伝説の徳蔵よりも強調されて描かれているといえるのではないだろうか。

しかしなぜ国芳は歌舞伎の徳蔵ではなく伝説の徳蔵を描いたのか。 それは上演場所が大きく関係しているのではないだろうか。 徳蔵の海坊主の問答は人々の間に古くから広く知られていたが『桑名屋徳蔵入船物語』は主に上方で上演され江戸では殆ど上演されなかった。 歌舞伎での徳蔵よりも伝説の徳蔵のほうが江戸の人々にとって親しみがあったのではないだろうか。 ゆえに国芳は歌舞伎の徳蔵ではない伝説の徳蔵を題に取ったのだろう。


【参考文献・HP】

『妖怪事典』村上健司、毎日新聞社、2000年

『浪速叢書第三』船越政一郎、浪速叢書刊行会、1927年

『歌舞伎台帳集成 第二十五巻』編歌舞伎台帳研究会、勉誠社、1991年

『増補日本架空伝承人名事典』、編大隅和雄、尾崎秀樹、西郷信綱他、平凡社、2000年

『国立劇場資料集〈142〉桑名屋徳蔵入舩物語』国立劇場調査養成部芸能調査室、1978年

『歌舞伎事典』編下中直人、平凡社、1983年

『歌舞伎登場人物事典』監河竹登志夫、編古井戸秀夫、白水社、2006年

「『桑名屋徳蔵入船物語』の構想」安富順、『歌舞伎 研究と批判27』、雄山閣出版、2001年

『日本随筆大成<第一期>7』監関根正直、和田英松、田辺勝哉、吉川弘文館、1975年

『東海道名所図会』秋里籬島、人物往来社、1967年

『船』須藤利一、法政大学出版局、1968年

『日本古典文学大辞典』、岩波書店、1984年

日国オンライン 最終閲覧日2008年12月17日

日本歴史地名体系オンライン 最終閲覧日2008年12月17日