観阿弥
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かんあみ
南北朝時代の能作者・能役者。 初代観世大夫(かんぜだゆう)であり、世阿弥の父である。 通称三郎、実名を清次(きよつぐ)といった。 芸名が観世で、これが代々踏襲され、後に観世座の座名となり、観世家の姓にもなった。 法名が観阿弥陀仏で、省略して観阿弥と呼ばれる。
観阿弥は山田猿楽美濃大夫の孫に当たり、兄に宝生大夫(ほうしょうだゆう)がいた。 大和猿楽四座の結崎座(ゆうざきざ)に所属し、早くから同座の能役者の棟梁であったらしい。
南北朝期は猿楽能よりも田楽能の質が高く、権力者の用いるところであった。 そのような状況で観阿弥は田楽本座の名手一忠を模範として技芸を磨き、また猿楽能擡頭のきっかけとなった音曲改革を行った。 そして京都今熊野で催した猿楽能を見物した足利義満にその芸を見出され、以降絶大な後援を受け、観世大夫が将軍の御用役者的な位置を占めるようになる。 またこのことがきっかけで、猿楽能は田楽能に比肩する芸能と認められるようになり、以降次第に猿楽能と田楽能との位置が逆転していくことになる。
観阿弥の業績の中でも特筆されるのは、音曲改革による猿楽能の質的向上であり、特に当時流行していた芸能である曲舞の音曲を能に取り入れたことである。
義満の後援を受ける好機に恵まれて猿楽能の地位向上を成し遂げたこととあわせて、現在でも能の大成者として評価されている。
観阿弥は、《自然居士》《金札》《江口》《松風》《卒都婆小町》などの原作者と推測され、その多くには世阿弥の改変の手が加わっているが、現在につながる能の作品の母胎を築いた人物と位置付けられる。