源義朝

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みなもとのよしとも


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

源義朝は左衛門尉為義の長子なり、坂東に於て人となる、驍武にして勇略あり、下野守に任ぜらる、保元の乱、父為義諸子を帥ゐて崇徳上皇の召に應じて自河殿に赴くに義朝獨り禁内に赴き、策を献じて夜襲を勧む、後白河帝授くるに大将の任を以てし且つ曰く、他日昇殿を許さんと、義朝曰く士の戦場に赴く何ぞ餘命を期せん、勅許を蒙りて希くば今直に昇殿して素願を遂けんと、直に殿階に昇る、少納言信西見て以て異議を挿みしが、帝、図難に當り武将にあらずして誰と與にせん、當制必ずしも拘るなかれと仰せあり、之を許すといふ、義朝感喜して出て、戦つて捷を奏す、功を以て左馬頭に任ぜらる、此時平清盛為義を捕へ朝に奏し義朝をして斬らしむ、義朝清盛の間之より漸く和せず、己にして二條天皇の代に及び、藤原信頼が親臣信西に平かならず、之を除かんとするの意あるを知り、之と結び併せて平清盛を図らんとし、平治元年十二月清盛熊野参詣の不在に乗じて事を擧ぐ、謂ゆる平治の乱是なり、初め三條殿を犯して火を放ち、信西が宅を焚きて信西を殺し、天皇上皇を官中に幽し、禁内に拠りて勢を張りしが、清盛歸洛し天皇を迎へ來攻するに及び、子義平と共に縦横奮戦せしも遂に大敗し、逃れて近江に出て、美濃青墓に至りしが復逐はれ、轉じて尾張に入り、野間に往きて長田荘司忠致に拠る、忠致反きて壮士を伏せて義朝を浴室に導き、遂に之を刺す、侍童澁谷金王勇奮立ろに壮士を斬り更に忠致を覓めしも得ず、数人を殺して去る、後忠致義朝が首を京都に伝へ、之を左獄の樗樹に梟す、染工五郎なるもの請うて之を左獄の門側に痤む、其後頼朝之を収葬し、勝長壽院を創す、尾張大御堂寺に、鶴澤採山筆義朝絵伝あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

源義朝は為義の長子、性驍武にして勇あり下野守に任ず、保元の乱起るや、父や兄弟に背いて独禁中に赴く、後白河天皇義朝を召して謀を諮ふ、義朝奏して曰ふ、敵の不備に乗じて勝を一挙に取る夜戦に若くはない、帝之に従ひ給ひ勅して曰く、汝親を棄てゝ義に赴く授くるに大将の任を以てす忠を尽し功を建つれば他日昇殿を許さむと、義朝曰く士の戦場に赴くは素より余命を期せず、勅許を得ば即ち今昇殿せんと戎服の侭進んで殿階を昇る、少納言信西之を阻まうとしたが帝聴き給はず、義朝帝恩に感じ精騎四百余騎を率ゐて大炊御門河原に陣し夜襲して白河殿を陥れ闕に詣つて捷を奏上す、帝功を賞して左馬頭に任じた、父為義は帝に叛いた廉で清盛をして其行衛を捜索せしめられたので馬義は窃に義朝のもとに匿れて助命を乞うた、義朝為めに屡々助命を請うたが宥されず、遂に為義をはじめ同胞五人を誅するに至つた、平治元年十二月、藤原信頼と相結んで平清盛藤原信西を除かんとして兵を挙げたが大敗し、再挙を図らんとして余党を集め機を待ち尾張国野間に赴き平忠致に寄つたが、忠致の為め浴湯に刺された、時に年三十八。  (大日本史)

義朝を描がけるものには尾張大御堂寺に鶴沢探山筆の絵伝があり、平治合戦には、伝住吉慶恩筆の絵巻があり義朝の事跡も此中に現はれてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)