●仮名手本忠臣蔵 七段目
寛延1年(1748)8月 大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演された。翌年には、江戸の3座で相次いで歌舞伎化され、日本を代表する演目となっている。
俗に「独参湯」と呼ばれ、観客の入りが悪くなると、「仮名手本忠臣蔵」が上演され、かならず客の入りを挽回できた。そのため、上演回数は群を抜き、毎年どこかの劇場で必ずこの芝居が出ている。
寛延1年(1748)8月 大坂竹本座で人形浄瑠璃として初演された。翌年には、江戸の3座で相次いで歌舞伎化され、日本を代表する演目となっている。
俗に「独参湯」と呼ばれ、観客の入りが悪くなると、「仮名手本忠臣蔵」が上演され、かならず客の入りを挽回できた。そのため、上演回数は群を抜き、毎年どこかの劇場で必ずこの芝居が出ている。
「嫁切り」「不破数右衛門」の通称で呼ばれる。
文化10年7月15日 江戸中村座
「太平記菊水之巻」
文化9年7月15日 江戸中村座 上演三代目中村歌右衛門が七役を演じた時のもの。大序は、「義臣伝読切講釈」の序幕。七段目は、「いろは仮名四十七訓」からの書換え。義太夫の「弥作の鎌腹」はこの作品から逆輸入したもの。
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