日本文化情報



昭和35年の祇園練物

祇園祭に練物が出なくなって久しいと思っていたら、京都観世会館から出ている「能」(2006年6月)に岡田万里子氏が昭和35年にもあった書いてあった。京都の風物詩として、そろそろ復活してもよいのではないかと思っている。
岡田氏は、この中で、宮島春齋「京都の芸能界 舞曲」(演芸画報・明治40年7月)、田中緑紅『祇園ねりもの』に記載のある万延元年(1860)の練物が、能狂言づくしであったことを紹介しており、その情報源が番付ではなく、八坂神社に奉納された扁額であるという。その扁額が、きちんと保管されていて、いつしか姿を現さないかとと願っている。

昭和11年の祇園ねりもの

昭和10年に43年間も中断していた練物が復活することになったが、六月末に大変な水害に見舞われたため、やむなく中止となってしまった。この時は、番付までできていただけに残念なことであった。翌11年にも練物復活の話しが持上がったが、甲部は、弥栄会館の建築もあって、乙部のみが出すことになった。田中緑紅の「祇園ねりもの」には、このあたりの事情が委しいが、この11年の練物の前の6月に脱稿し、7月に出版されたものであるので、11年の練物が実行されたのかどうかの記述はない。

京都の花街名鑑の再開

 アート・リサーチセンターには、江戸期の京都文化・芸能資料が数多く集ってきている。その中に、花街名鑑とジャンル分けできる『園のはな』があったが、天保の改革により、祇園そのものが閉鎖されてしまい、名鑑を出版できなくなったことは前に述べた。
 その天保の改革の縛りがゆるみだすと、祇園は再び活況を取戻していったが、おそらく、嘉永の末には、天保改革以前の賑わいを見せ始めていたと思う。その理由は、やはり花街名鑑が復活しているからである。現在、やはりアート・リサーチセンターに所蔵されている『祇園新地歌妓名譜/全盛糸の音色』は、文久三年正月の刊記をもつ祇園花街名鑑である。
『全盛糸の音色』奥付

『園のはな』(天保11年正月刊 )

という本が出ている。横本で、いわゆる名鑑型の出版物である。
『守貞謾稿』巻之21にこの本の一部が紹介されている。図も書入れられており、祇園町の万屋安兵衛の部分のみが書写されている。しかし、国書総目録にも記載がない貴重な資料である。
内題に「祇園六街芸妓名譜(ぎおんしんち げいこなよせ)」とあり、凡例には
此書はふるくより全盛糸の音色あるは歌妓名鑑または最中の満月などいへる書つぎ/\に
   あり。されどわづか一紙に書つゞめたれば尽ことかたし
とあって、冊子体裁として名鑑を出した最初のものと宣言している。
また、内題の肩には「毎月改正」ともみえ、この時以降毎月発行しようという意気込みが感じられる。それだけでなく、その「追出目録」には、「下河原細見 真葛乃栄」、「祇園街同新地 園乃夜桜」、「西石垣細見 花乃追風」、「二条新地細見 川そひ柳」、「宮川細見 三よ世乃枕」、「北野細見 梅乃魁」などの書名が挙がっており、シリーズ化して発行していこうとしたものであることが伺われのでる。
これだけの資料が実際に出版されていたとしたら、天保期の京都の花街に関する情報はどれだけ豊かになっていたか、想像を絶するものがある。

「祇園御輿洗 練物姿 今鶴」

祇園御輿洗練物姿 今鶴
 掲出するのは、「はる川画」の落款がある細判合羽摺である。
退色しやすい絵の具の紫がまだ鮮やかに残っており、状態もよい。
・はる川は、「春川五七」と目される絵師で、最初江戸に住んでいたが、文化後半から京都に移り、祇園に居住して、天保2年(1831)に没したと伝えられている人物である。絵画的素養は、むしろ江戸で身につけたものと思われ、そのためか、顔の描写方法もそれまでの上方の絵師とはひと味ちがっている。
・板元は、山城屋佐兵衛と本屋吉兵衛の合板(共同出版)である。いずれも京都の板元であるが、山城屋は、「祇園蛸薬師東洞院東入」という住所までが判明している。
描かれている芸妓は、京井筒屋の今鶴という芸妓で、「宮木阿曽次郎」に扮している。いわばブロマイドとして練物に出る芸妓の姿絵を売り出したのである。
 本作品の制作年月は、文化11年5月である。

練物姿を描いた合羽摺

 合羽摺の作品の中に「祇園御輿はらひ ねり物姿」とのタイトルを持つ作品が数多くある。
 「祇園御輿洗(はらい)」とは、祇園祭の一連の行事の一つで、山鉾巡行に先だって、現在では7月10日に八坂神社の三基ある御輿の内、少将井(せいしょうい)の神輿一基を運び、鴨川の水で清める儀式をいい、また、本祭のあとの28日に再び鴨川の水で清めて、拝殿に戻るのも同じく御輿洗と呼ばれている。