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総合

東海道五十三対  川崎


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【翻刻】

新田義興は竹澤右京亮江戸遠江守が 姦計に欺れて矢口の渡にて亡され その志魂とまりて江戸が帰るさに 霊魂雷となりて雲中より現れ敵を取り殺す後  霊魂を慰めんか為に新田大明神と祟祭る  其霊験今に於て倍新也

絵師:一勇斎国芳

落款印章:一勇斎国芳画

版元文字:小嶋板


【背景】

 この絵は、新田義貞の次男である新田義興が、父の戦死後も南朝方の武将として東国で活躍したことに鎌倉公方・足利基氏の執事・畠山国清は恐れを抱き、竹沢右京亮江戸遠江守らを義興のもとに潜入させ、謀略をもって義興を多摩川矢口渡に自害せしめた場面を描いたものと思われる。


〈翻刻文、絵について〉

 この文章は『東海道名所図会』を参考にして書かれたと思われる。

「新田義興は竹沢右京亮江戸遠江守が 姦計に欺れて矢口のわたしにて亡される其霊魂とどまりて 江戸が帰るさ霊鬼雲中より現れ取殺したる後新田明神と祟祭る」

『東海道名所図会』の絵と国芳の描いた絵を見比べると、国芳の浮世絵の題材が史実の矢口渡場面だとすると、『東海道名所図会』の絵は怨霊となった義興が「火威の鎧に竜頭の五枚の兜の緒をしめて、額に角の生えた白栗毛の馬に乗り、鞭を打って迫ってきた。義興の怨霊は刃渡り七寸ばかりの雁俣で遠江守を射通した。」(『大田区史』)という矢口渡後に江戸遠江守が義興の怨霊に襲われる場面であると思われる。題材は共通するが、描かれた場面は異なっている。


〈川崎について〉

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新田義興が自害したとされる矢口渡は、『日本歴史地名大系 東京都の地名』をみると、

「新田義興は「矢口ノ渡」の船中で畠山国清の家臣竹沢右京亮らに謀殺されたと伝えられる。この矢口渡は、多摩川の渡河点の一つで、現大田区矢口に比定されている。」

とあり、現在の東京都大田区にあたるとされている。しかし、同じく『日本歴史地名大系 神奈川県の地名』を見てみると、

「延文三年、(1358)十月、畠山国清の謀略によって多摩川の矢口渡(現川崎市幸区)へ誘導された新田義興は船中で自殺した。」

とあり、ここでは現川崎市幸区となっているため、いまいち場所が定まらない。 また、矢口渡は「多摩川矢口渡」とされており、多摩川についてみてみると、

「神奈川県の県境、川崎市と東京都大田区の間を流れて東京湾に注ぐ。」

とある。どちらにしてもはっきりとは特定し難い。 『東京都の地名』のほうが後に出版されているため、東京都大田区と考えるのが妥当か。


 これについて『大田区史』には、矢口渡の場所に関する記述に

「多摩川流域には、多摩郡の矢野口(稲城市)と荏原郡の矢口(大田区)の両所があり、そのために古来混同されがちで、紛らわしい。」

とある。こちらも一つに定めてはいないものの、「川崎」の文字は見られない。 幾つか根拠を挙げながら、ここでの結論として矢口(大田区)こそが義興憤死の場所とすべきとしている。

『太平記』には、義興が謀殺された矢口渡について「多摩川流域」とのみ記されている。 義興は水上で自害したとされているため、はっきりとした場所は特定できないのかもしれない。 しかし敢えて特定するのなら、後に記す「十寄神社」「女塚神社」などが大田区に建てられていることからも、矢口渡は大田区矢口と考えるのが有力であると考える。


・十寄(とよせ又はじっき)神社

義興と行を共にした家来は、世良田右馬助、井弾正忠、大島周防守、土肥三郎左衛門、市河五郎、由良兵庫助、由良新左衛門尉、南瀬口六郎ら腹心の者わずか十三人で、彼等を引きつれて謀略とも知らず矢口の渡しの渡船に乗り込んだのである。

これら13人を祀ったのが十寄神社である。


・女塚神社

竹沢右京亮はなんとかして義興に近付くために一計を案じ、京都へ人を上らせ、ある宮の御所の少将殿という上臈女房で、十六、七歳の美女を自分の養女に申し受け、装束、侍女までさまざまに仕立てて、ひそかに義興のもとにさし出した。義興は元来好色の心が深かったので、この美女の色香に迷い、一日たりともそばを離したがらぬほどの惚れこみようであった。 (その後、竹沢は義興を自分の屋敷に呼び討ち取ろうと計画する。義興が竹沢の家に向かおうとした時、少将局より「凶悪の夢を見たので門のうちを出てはならぬ」と消息が届いた。これにより訪問を取りやめ、この忙殺計画は失敗に終わる)。 案に相違して計画を失敗した竹沢は、少将局が竹沢の計画を察知して、消息を持って義興に知らせたものと考え、この局を生かしておいては謀計の邪魔になると思い込み、翌朝、ひそかに局をよびだして刺殺し、堀の中に沈めた。 『大田区史』

この女性(少将局)を祀ったのが「女塚神社」である。

・十寄神社、女塚神社は共に現東京都大田区に存在する。


〈新田義興伝説〉


新田義興は新田義貞の次子で、たびたび戦功をたて、父の死後も南朝方の有力武将として際立った存在であった。足利方はこれを除くため謀計をめぐらし、竹沢右京亮、江戸遠江守、同下野守らを義興のもとに潜入させ、延文3年(1358)鎌倉に攻め入るチャンスと奸言した。 これを信用した義興は、主従わずか13騎の少勢でこの地にいたり、矢口渡で多摩川を渡るため船に乗ったところ、船頭が船底にしかけた穴の栓を抜き、船は水中に沈没する。対岸からは(味方であると思っていた)江戸氏の軍勢が攻めかけ、義興は、はじめて謀略を知って激憤したが、時すでにおそく、自刃して果てた。 その後、江戸氏らに義興の怨霊の雷電の怪異がおこり、また入間川に陣した足利方にも怪異な火災があった。矢口渡では毎夜光物が出て往来の人々を悩ませ、たたりがあると評判になったので、土地の人が義興を埋葬した塚に一社を造立したのが新田神社であるという。


(義興死後) (義興ら自刃後、恩賞をもらった)江戸両氏は暇をたまわり、喜悦の眉を開いて恩賞の地へ下った。江戸遠江守は恩賞の地へ向かう途中、矢口渡にさしかかった。それを聞いた謀略の立役者の一人である渡守は、種々の酒肴を用意して、迎えの船を漕ぎ出した。船がちょうど川中を過ぎようとしたとき、にわかに一点かきくもり、雷鳴とどろき、風雨吹き荒れて、白波が船を漂わせた。渡守は、あわてて櫓をとり、漕ぎ出そうとしたが、逆巻く波にのみ込まれ、水手舵取り一人も残らず水底に沈んでいった。 これを見た江戸遠江守は、天の怒り只事ではない、義興の怨霊のなせるわざとおののき、川端から引き返して、他の場所から渡河しようと、川上の方へ二十町余り、馬を早めて川瀬を急いだ。しかし雷光はひらめき、雷は大いに鳴り響き、在家は遠く、日は暮れて、まさに雷神に蹴殺されるような状況となった。江戸遠江守は『御助候へ兵衛佐(義興)』と手を合わせて虚空を拝んで逃げたが、とある山の麓が目に入った。そこまでたどりつこうと馬を早めたところに、黒雲一群、遠江守の頭の上に落ち下り、雷電耳の辺りに鳴り響いたので、あまりの恐ろしさにふり返ると、義興が火縅の鎧に龍頭の五枚の兜の緒をしめて、額に角の生えた白栗毛の馬に乗り、鞭を打って追ってきた。義興の怨霊は、刃渡り七寸あまりの雁俣で遠江守を射通した。遠江守は馬から落ち、やがて血を吐いて悶絶したので、従者が輿に乗せ、江戸氏の館に連れ帰ったが、その後七日間手足をあがき、水におぼれた真似をして、『アラ堪ガタヤ、是助ケヨ』と叫びながら死んでいったという。

『太平記』


これをみると、義興は足利氏らの謀略により自害させられた悲劇の武将であるといえる。 そんな義興の悲劇を脚色し作品としたのが、福内鬼外(平賀源内)の『神霊矢口渡』であり、人形浄瑠璃・歌舞伎で上演された。

 

神霊矢口渡

[題材] 初段の坊門清忠と義興の対立、義興と義峯兄弟の別れ、二段目の武蔵野原合戦での義興の戦いぶりなどその題材の多くを『太平記』に依拠し、また現在東京大田区にある新田義興を祭る新田神社の由来を絡ませてある。

これは義興の最期とその後日譚であり、武蔵国矢口の渡守の娘お舟と義興の弟義峯との悲恋を描いた四段目からが名高い。

《あらすじ》

 六郷川の矢口の渡しにて、渡し守の頓兵衛は、先の足利と新田の争いで、褒美の金欲しさに足利方の手先となり、新田義興の溺死に加担した強欲者である。この家に、義興の弟の義峯が、愛妻の傾城うてなを伴って訪れる。頓兵衛の娘で、父とは似ても似つかない気立てのいいお舟は、気品ある義峯にひと目惚れしてしまう。連れの女性は妹と聞いたお舟は、積極的に義峯に迫っていく。しかし義峯を新田の落人と知った頓兵衛は、再び金目当てに、床下から義峯を狙う。手応えを感じた頓兵衛の刀の先には、苦しむ娘の姿が。お舟は自ら義峯の身替わりとなり、彼らを逃がしたのだった。瀕死のお船は二人を逃すために、追っ手の囲みを解く太鼓をたたいて追ってを欺く。追いすがる頓兵衛に、(義興の一念通力により)天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫くという、悲恋物語である。

二段 切、(新田館の段)まで義興が登場しており、その段で義興の自刃の場面が描かれる。

五段(新田明神の段)義興は新田大明神として矢口に祀られる。


〈水破兵破について〉

前太平記、十八の「頼光亜臣自椒花女伝弓矢事」に

「我は楚の恭王の大夫、養由基が娘椒花女と云う者なり、さても我父由基、射芸を嗜めり、我時大聖文珠薩埵、養由に託して宣く、汝は是我化身なり、吾汝に三徳を教へんとて、文珠自ら双眼の睛を取つて、二の鏑に作り給ふ、是れを水破兵破と名付く、又五台山の麓に、両頭の大蛇あり、信楽漸愧の衣の糸を、八尺五寸の弦に綯係けて一張の弓となし、是を雷上動と云ふ、多羅葉を集めて直垂を作り、着せしめ給ふ、即ち件の弓籠を以て、柳葉を的として射る術を教へ給ふ、されば由基百歩を隔て、柳の葉を射るに、百発って百中る、或時晋と楚と鄢陵と云ふ所にて戦ひしに由基甲に蹲つて是を射る、盾七枚を射徹す、其精兵強勢此の如し、天下無双の名を顕し、弓を取れば、行雁も列を擾り、飛鳥も忽ち地に落ちぬ、然るに由基其寿七百歳を経て、既に命終りなんとする時、広く天下を見案するに、弓矢を伝ふべき人なし、娘なれば何時に授くべしとて、吾に伝置いて其身空しく成りぬ、今吾も亦命尽きなんとす、又伝ふ可き弟子なければ、心憂き事に思ひしに、大聖文珠、又吾に告げ給はく、汝所伝の弓籠を伝ふ可き者、扶桑国に在り、名を源頼光と云ふ、彼亦我化身にて童名を文珠と云へり、是れ此値遇あるが故なり、其器当に弓籠を伝ふべき者なり、急ぎ彼の国に到つて授与すべしと宣ひき、吾れ喜び思ふ事限なし、即ち此に来つて、足下に見ゆ、此弓籠を授く可しとて、水破兵破雷上動升に彼の直垂とを授けて、又雲居に飛去ると見給ひて、即ち夢は醒めぬ」

とあるが、これしか水破兵破についての記述を見つけることができなかった。


【考察】

   この絵は、新田義興の矢口渡における謀略自刃の事件について描いている。真ん中の人物が新田義興で、義興に背を向けているのが井弾正、手前で水に浸っているのは大島周防守であり、義興の家来である。畠山国清による謀略にはまり攻められている場面であり、三者とも敵方を睨み刀を抜いている。既に船は沈みかけ、敵方からは矢が放たれており、為す術がなく窮地に追い込まれている様子がみてとれる。

 しかしこの事件について記される資料は『太平記』のほかには断片的にしかなく、『太平記』に関しても、かなり潤飾化された、いわゆる軍記物と称される文芸書であるため、史実と現実が入り交ざっており、その中から史実を正確に把握することは難しいとされている。

 記される内容がすべて史実とはいえないが、『太平記』に語られる内容、そしてそれを題材にした『神霊矢口渡』をもとにして、国芳はこの絵を描いたと思われる。 『東海道名所図会』が、義興の怨霊が江戸遠江守を襲っている場面を描いているのに対し、国芳は義興の自刃場面を描いている。文章は『東海道名所図会』に基づいていると考察できるが、双方の絵については構図が異なっており、なぜ国芳が自刃の場面を描いたのかは、よくわからない。 義興が怨霊となって現れる原因となるできごとを、国芳は描いている。



《参考文献》

・『新潮日本人名事典』佐藤亮一 新潮社(1991、3、5)

・『日本歴史地名体系 東京都の地名13』下中直人 平凡社(2002、7、10)

・『日本歴史地名体系 神奈川県の地名14』下中邦彦 平凡社(1984,2,15)

・『原色浮世絵大辞典 版元 第三巻』東京:大修館書店

・『歌舞伎事典』下中直人 平凡社(1983、11、8)

・『神社辞典』白井永二、土岐昌訓 東京堂出版(1979、12、15)

・『太平記 三』日本古典文学大系36 後藤丹治、岡見正雄校注 岩波書店

・『江戸名所図会』東京:人物往来社 (1967)

・『東海道名所図会』原田幹 人物往来社(1967、8、25)

・『浄瑠璃作品要説〈7〉』江戸作者編  (1993、3,25)

・『大田区史 上巻』西岡秀雄 東京都大田区(1985、10、1)

・『日本古典文学体系55 風来山人集』中村幸彦 岩波書店(1961、8、7)