新田義貞

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にったよしさだ


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正安二―暦応元・延元三・閏七・二(1301~38) 鎌倉末・南北朝時代の武将。朝氏の子。小太郎と称す。上野新田郡世良田を本拠とし上野地方に大きな勢力を持っていた。元弘の乱(1331)の際、幕府方として楠木正成の千早城を攻めたが、途中帰国し、正慶二・元弘三年(1333)五月挙兵、鎌倉を攻めて幕府を倒した。功により建武政権から越後守、上野播磨両国の介に任ぜられ、近衛中将、武者所頭人となった。しかし足利尊氏と対立、建武政府に離反した尊氏と建武二年(1335)箱根竹ノ下に戦い敗れ、翌年九州から東上する尊氏を兵庫に迎撃してまた敗れ、恒良(つねなが)親王・尊良(たかなが)親王を奉じて北陸に落ち、越前金崎城に拠った。しかし建武四・延元二年三月落城し、脱出して再挙をはかろうとしたが、翌年斯波高経と藤島で戦い討死した。


〈参考〉

『新潮日本人名辞典』佐藤亮一 新潮社(1991、3、5)にったよしさだ


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

南朝の忠臣、通称小太郎、世々上野国に住し豪族である、元弘三年北条高時に従ひ楠木正成を千剣城に囲んだが、密に勤王の志を抱き護良親王の令旨を得るに及び病と称して東国に帰り遂に議兵を挙げた、先づ兵を率ゐて鎌倉に迫り、稲村ケ崎を徒渉して奮戦す、高時これを防ぐこと能はずして自尽し北条氏は亡びた、軍を出してから僅に十五日である、かくして自ら鎌倉に入り其由を奏上するや後醍醐天皇大に喜ばせ給ひ遥に左馬助を授く、建武元年入朝し従四位下に叙せられ左兵衛督に任じ上野播磨二国の守護を兼ね京都を守護した、会々足利尊氏天皇の寵を得て行賞義貞の上にあつたので義貞心中平かならず、足利氏と勢力争ひする様になつた、二年尊氏は鎌倉に入り義貞を除くを名として叛す、義貞尊良親王を奉じ東海道から進んで矢矧川、鷺坂、手越川等で尊氏の軍を敗つたが、竹下箱根の戦で敗れ京都に帰つた、ここに於て諸国の豪族多く尊氏に属するやうになつた、延元三年の春、尊氏京都に迫るや、義貞は帝に供奉して延暦寺に入つたが会々北畠顕家が来り援けたので尊氏は大敗して西国へ走るに至つた、その功に依つて左近衛中将に任ぜられた、此時赤松則村尊氏に属し播磨の白旗城に拠つたので義貞之を討たうとして戦ひ勝敗未だ決せざる処へ尊氏西国から捲土重来して来たので、楠木正成と共に之を兵庫に防いだが戦利なく、京都に入つた、後醍醐天皇詐つて尊氏と和を結ぶに際し義貞に命じて皇太子恒良親王及び尊良親王を奉じて北国に赴き後図に当らしめた、義貞乃ち越前金崎城に拠る、賊将足利高経大兵を率ゐて攻めたが、善戦能く数ケ月に亘つた、然し衆寡敵せず、外に救援なく内に糧食尽き、遂に太子は虜となり、尊良親王及新田義顕は自刃した、義貞は此時杣山にあること半歳、窃かに党旧を集めて高経を越後の国府に破り、勢大に振つたが、高経を黒丸城に攻むるに当り、藤島城にあつた平泉寺の僧等、高経に走つたのを聞き味方の救援に赴く途中、流失に当る、義貞その免るべからざるを知り、自から首を刎ねて死す、年三十八、高経屍を納めて岸水村往生院に葬る。

義貞の伝中、鎌倉攻に当り稲村ケ崎に太刀を投げて海水を干かせたこと、金崎に一夜管絃の興を催したこと、共に載せて『太平記』にあり、人口に膾炙する処である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)