韓信

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

かんしん


画題

画像(Open)

[1]



解説

(分類:中国)

画題辞典

韓倍は准陰の人なり、秦の衰世に出づ、初め家貧にして城下に釣す。漂母あり、之に食を給す。信即ち後来厚く報ぜんことをいう。漂母怒って曰く、大丈夫自ら給する能わず、吾れ汝が王孫なるを憐んで之に食を給するのみ、何ぞ報を望まんやと。准陰屠中の少年、又信を侮るものあり、辱めて曰く、汝長大にして好んで剣を帯ぶるも実は怯のみ、汝命を惜まずんば我を刺せ、能わずんば我が股下を出でよと、信やがて地上に匍匐して俛して少年の股下を出づ、市人皆之を笑う。既にして項梁に従ひ又項羽に属し、策を献ぜしも用いられず、去って漢王劉邦に帰し、治粟太尉となる。数々丞相蕭何と語る、且つて漢王南鄭に至る時、将士皆東帰を欲して逃亡す、此時信亦用いられざるを以て亡げて去る。蕭何自ら之を追う、人之を見て丞相何亦亡ぐといいしかば、王大に怒り帰り来るに及び之を詰間す。何日く韓信を追うのみ、諸将皆亡ぐと雖も得易し、信は実に国士無双也、王漢中に王たらんと欲せば信を用ゆべし、天下を争わんと欲せば信と共に計るベしと。漢王之より大に信を用い大将となす、後楚を破りて右丞相となり、魏と趙を平げて相国になり、遂に齊を平定して齊王に封せらる。漢の五年楚王に徒され、次いて讒に会うて准陰侯に貶せられ。十一年陳豨の反する時、縛せられて長樂の鐘室に斬らる、時に年二十七なり。信の世に処し其漂母の愍を受くること、少年の股下を出づること。蕭何に知られしこと、一代の事歴皆画材たり、

近く謝蕪村に蕭何追韓信の図あり、岡本豊彦に同図(大阪清海氏所蔵)あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那漢の三傑の一、淮陰の人、少時家貧にして嘗て飯を漂母に受け、又屠中少年の辱を忍び其の股下を匍伏して出たこともある、秦の天下乱れ、項梁淮を渡るに及び、剣を杖いてこれに従ふ、屡々策を上つたが用ひられず、遂に去て漢王劉邦に帰し、治粟都尉となり、屡々蕭何と語る、何深くこれを奇とす、然し重く用ひられずして又去る、蕭何追うてこれを止め、漢王に薦む、王乃ち壇を設けて信を大将に拝す、そして信の計を用ひて諸将を部署し改めて三秦を下した、魏王豹の反するや、王の命を受け撃つてこれを虜とし、転じて趙を攻め、いはゆる背水の陣を布き奇計を用ひてこれを破り、其地を定めた、尋で弁士を遣はして燕を降す、漢王の成皐に敗るゝや走つて趙の壁に入り、信の軍を奪ひ信をして斉を撃たしむ、信、襲うて斉を破る、項羽乃ち竜旦を遣はして斉を救ふ、信これを九水に破る、仮に斉王となつて其地を鎮ぜんと請ふ、王一たび怒つたが張良、陳平の諌に従ひこれを許す、項羽、竜旦の敗死を聞き、人をして信と共に連和して天下を三分せんことを説かしめたが信聴かず、尋で垓下の囲に会し又大に楚軍を破り漢王をして鴻業を開かしめた、高祖これを評して曰く『百万の衆を連ね戦へば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは吾韓信に若かず』と、楚王に封ぜらる、漂母を召して千金を与へ、又自己を辱しめた少年を召して中尉とした、後、韓信反すと讒するものあり、貶せられて淮陰侯となつたが、後また呂后の計に陥つて斬らる、時に年二十七。

その少年時代朋輩の股下を潜るの図、並に蕭何の韓信を追ふ図は好画題としてよく描かる。

渡辺崋山筆               福田山王荘旧蔵

岡本豊彦筆               大阪清海氏蔵

与謝蕪村筆  『蕭何追韓信』(重美)  野村徳七氏蔵

小田海僊筆  『同』          秋田本郷氏旧蔵

尾竹越堂筆               第五回文展出品

橋本雅邦筆               東京宮田氏旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)