項羽

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項羽(こうう) 五番目物・猛将物

中国の伝説的英雄項羽の生涯を前編通して描いている。

あらすじ

 草刈りたちは、偶然来合わせた老人の渡し船に、便船を求めた。すると老人は船賃はいらないから乗りなさいという。やがて対岸についた時、老人は草刈りに船賃の代わりに背負っている籠の中にある虞美人草がほしいと言う。理由を尋ねると、この花は項羽の后虞氏を埋めた塚に咲いた花であると答え、項羽と漢の高祖の戦いの末、高祖に破れた項羽こそが自分であると明かし、弔いを頼み消えていった。

 その夜、草刈りの夢の中に矛を持った項羽と虞美人の霊が現れ、華やかだった昔を偲ぶ。そして虞氏が身を投げ、項羽が矛の柄で探すも虚しく、再び戦の場へ戻り、悲憤の末の自刃までを再現してみせる。

場面解説

後場の鏡の間の一幕である。出端の囃子に合わせて、後シテ項羽とツレ虞美人が幕の内で出を待つ。シテには後見が鉾を持たせており、ツレはその後ろに控えている。ツレは、通常ならば小面などの女面をかけるが、本作品のツレは面をかけていない。このことから、ツレを演じているのは少年であることが予想される。少年期の時分には、一時的な花「時分の花」があると世阿弥は語り、その言葉を借りれば「童形なれば、何としたるも幽玄」なのである。

 本図が描かれたのは明治31年で、画中に見えるほとんどの人物は散切頭になっている。蝉丸と同じく緊張感に包まれた鏡の間であるが、衝立にもたれかかり、楽しげに演者の出を見つめる人物は対照的である。



画題

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解説

(分類:物語)

画題辞典

項羽、名は籍、支那秦代の人。父は燕、下相に生る、家世世楚将なり、身長八尺二寸、力鼎を扛く。少時書を学びて成らず、去って剣を学ぶ、又成らず。季父項梁怒りて之を責むるや、羽曰く書は姓名を記するに足る、剣は一人の敵なり、学ぶに足らず、希くは万人の敵を学ばんと、梁此に於て羽に兵法を教ゆという。父軍を挙ぐるに及び、二十四歳を以て裨将となり、襄城を抜き、秦軍を破りて上将軍に拝す。漢の元年兵三十万を率い、河南新安を経て漢中に向う、其時既に沛公劉季(漢高祖)咸陽を陥ると聞き、怒りて之を殺さんとし、鴻門に会して遂に意を遂げず、爾来漢と戦うて相拮抗する五年、遂に敗れ垓下に到る。時に兵既に少く食尽く、漢兵之を囲む数重、一夜漢軍四面皆楚歌す羽驚いて曰く漢既に楚を得たるか、楚人何ぞ多きやと、起て帳中に飲み、愛人虞美人をして舞わしむ、悲歌慷慨涙数行下る、歌に曰く「力山を抜き氣世を蓋ふ時利あらず騅逝かず虞や虞や爾を奈何せん」と、騅は羽が常に乗用する駿馬なり。衆皆泣く、夜に乗じ八百の兵を率い、囲を潰して東烏江を渡らんとして敵に追われ自剄して死す、年二十九なり。

第三回院展に安田靭彦之を描く。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那楚の英傑、下相の人、名は籍、字は羽、目重瞳、力強く鼎を挙げたといふ、秦の二世皇帝の初世に陳勝が兵を起した時、項羽も父の項梁と共に呉中に兵を起したが、項梁敗死し、項羽はその軍を率ひ秦の軍と戦ふこと九度、皆之を敗り秦王子嬰を屠り楚の懐王を立て、義帝となし、自ら立つて西楚の覇王となつた、又漢の高祖と戦ひ、その都度これを敗つたが、後に漢の軍及び諸侯の軍に垓下に囲まれ、夜、四面楚歌を聞いて、愛人虞美人と別離を惜しみ、立つて舞はしめ、自ら

力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝、騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。

と歌ひ、その夜囲を脱して烏江に至り自ら首を刎ねて死す、時に年三十二。(虞美人の項参照)

項籍者下相人也、字羽初起年二十四、其季父項梁、梁父即楚将、項燕為秦将王翦所戮者也、項氏世々為楚将、封於項故姓項氏。  (史記)

その虞美人と別離を惜むの場面は好個の画題であり、安田靫彦日本美術院第三回展にこれを出品した。

(二)能の曲名 元清の作、前シテ老翁、後シテ項羽、ツレ虞氏、ワキ草苅、処は唐土で、草苅男が鳥江の辺で船頭に便船を頼み、船頭から虞美人草の物語を聞く、船頭は後に項羽の霊と名乗つて去り、後段項羽と虞氏が現はれて、最期のさまなど語つて舞ふ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)