後醍醐天皇

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ごだいごてんのう


画題

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解説

画題辞典

後醍醐天皇、御諱は尊治、後宇多天皇第二の皇子、第九十六代の天皇なり。正応元年十一月二日御降誕、文保二年花園天皇の禅を受けて帝位に即かる。時に関東に北条高時執権たり、天皇後鳥羽天皇以来の遺志を継承し、幕府を倒して大権を朝廷に復せんとするの意志あり、日野資朝、同俊基等と之を計る、已にして謀洩れ、資朝等捕わる、天皇告文を幕府に賜うて僅に事なきを得たり。嘉暦三年再び之を計らんとして、遂に幕府の兵に逼られ笠置に免る。此時紫宸殿前南枝独り栄ゆる大樹あり、樹下に玉座を設けて二童子之を迎ふるの夢を見て以て楠正成を召す、已にして笠置陥り天皇京師に迎えられ更に隠岐に流さる。尋いて勤王の兵四方に起り、鎌倉幕府倒れ建武中興の政成り、天皇万機を行いしも、幾くもなくして足利尊氏反し、正成死し、新田義貞北国に走り、天皇再ぴ京都を去りて叡山に幸す。此後一たび尊氏等に逼られて京都に入りしも、更に又神器を奉じて大和に遁れ、行宮を吉野に営み恢復を企図し玉ひ、最も宸襟を悩まし玉ふ。行宮に在る三年、延元四年八月十六日竟に此に崩ず、御歳五十二なり。

山城大徳寺に御宸影あり、藤沢清浄光寺に灌頂の御影あり、又その御一代の御事蹟は歴史画として描かるゝ所少なからず、菊池容斎が潔斎七日にして如意輪寺の為めに御影を写せしも名高き事なり、第五回院展の安田靭彦が「御夢」も天皇の御事蹟を描きしものなり。(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

第九十六代の天皇、諱は尊治、後宇多天皇の第二皇子、御母は談天門院藤原忠子、正応元年十一月二日御降誕、幼より御聡明に亘らせられたので亀山天皇殊に御寵愛遊ばされた、文保二年花園天皇の禅を受けて即位し給ふ、当時北条氏権を恣にし専横を極めたので天皇は之を亡し後鳥羽上皇の御志をついで政権を朝廷に収めやうとし正元元年勤王の士を徴されたが事北条に洩れて御企は成就しなかつた、天皇更に屈し給はず元弘元年再び討伐を宣せられたので、北条氏は大兵を以て笠置の行在を陥れ皇太子量仁親王を立て光厳院と称し天皇を隠岐へ遷し奉つたが、楠木正成以下勤王の将士続々興り遂に北条氏を亡し天皇は京都に還幸、建武中興の政を布かれた、然るに幾干もなく足利尊氏鎌倉に叛し新田義貞之を討つたが敗れ、尊氏は一時京都に入り之を占領した、然るに正成義貞等交々之を討つたので遂に敗れ九州に走り、更に大軍を擁して上洛したので正成は之を湊川に邀へて戦死した、茲に於て尊氏は光厳院の御弟光明院を擁立し、後醍醐天皇は新田義貞をして皇太子恒良親王を奉じ北国を経営させ、吉野に行幸せられたので、これより南北両朝に分れることとなつた、天皇は更に陸奥の北畠顕家を上洛せしめ京都を恢復させられたが、顕家は和泉に戦死し、続いて義貞も金崎に戦死した、よつて北畠親房をして義良親王を奉して陸奥を経営させる為め伊勢より海路出発せしめられたが、途中暴風の為め親王は伊勢に吹戻され、又懐良親王をして九州を経営させ給ふなど宸襟を悩まされたが事未だ成らず行宮に在すこと三年延元四年八月十六日遂に崩御あらせられた、御歳五十二。

後醍醐天皇御一代は歴史画として描かるゝ所少からず。

御宸影    文部省史料編纂係

同      京都紫野大徳寺蔵

灌頂御影   相模藤沢清浄光寺

菊池容斎筆  吉野如意輪寺蔵

橋本関雪筆  第六回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)