孔明

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こうめい


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歌舞伎

文楽人形の中年の男のかしら。 「諸葛孔明鼎軍談」の諸葛孔明からその名が出ているように、智仁を兼ね備えた気品の高い顔で、ひとみと眉間にその特徴をあらわしている。時代ものの思慮深い五十歳前後の大人物の役に用いられる。たとえば「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助、「壇浦兜車記」の畠山重忠、「菅原伝授手習鑑」の道明寺の菅丞相など。塗色は薄卵色で眼は眠る仕掛になっている。文七と共に文楽の男のかしらの代表といえよう。


画題

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解説

(分類:物語)

画題辞典

孔明、支那三国漢の宰相にして軍師なり、諸葛亮という、字は孔明、琅琊の人、身の長八尺、初め仕えずして襄陽の隆中に居り、自ら管仲樂毅に比す、劉備(昭烈帝)新野に屯する時、司馬徽徐庶共に之を備に推す、備即ち三顧して初めて逢い遂に水魚の交を致す。是より謀を廻らし、魏の曹操の大軍を以て襲来せるを赤壁に破り、江南の地を得、次いで蜀を平げ、帝業を援けて自ら丞相となり。昭烈帝崩するの後、切実なる遺詔を受けて後主を輔け、諸方に戦い.入りては武を講じて民力休養を謀り、又屡々帝を諫戒して前後出師表を上る、言々皆赤心の披瀝にして、後世之を読んで泣かざるもの人にあらずといわる、建興十二年大衆を悉くし、斜谷より五丈原に拠り、司馬仲達と対戦中、疾を発して陣中に卒す、年五十四、忠武侯と謚す。草蘆三顧万里橋五丈原、悉く皆好画題なり、各其条を見るべし。 孔明像を画けるもの、秋元子爵旧蔵に昌運の作あり、その他大倉男爵に狩野探幽、常信等の作あり。 (『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

諸葛亮といふ、字は孔明、支那三国時代、蜀の忠臣で軍師であり、身の長八尺に及ぶといふ、琅琊の人、初め襄陽にあつて耕作し敢へて仕へず、司馬徽その人物を知つて劉備に薦む、劉備則ち、関羽張飛の二人を伴ひ、孔明をその草芦に訪ふこと三度に及ぶ、孔明漸く心を決して出廬、劉備を援け、謀を帷幕の裏に廻らして先づ赤壁に魏の曹操の大軍を破り、蜀を平げ、劉備の帝業を輔佐して丞相となつた、劉備崩ずるや後主を扶けて内治に外征に誠心を傾け、建興五年遂に大挙して魏を討つた、その後主に上つた前後二回の出師表は、これを読んで泣かざるもの人に非ずといふ位である、建興十二年、斜谷より武江五丈原に拠り、魏の司馬仲逹と対陣中、病の為め陣中に歿す、年五十四、忠武侯と諡す、孔明文をよくし、兵器に精しく、木牛、流馬、連弩等を発明し、よく兵を用ひた、前後二回の出師表は収めて『古文真宝』にある。曰く      出師表 先帝創業未半而中道崩殂、今天下三分益州罷敝、此誠危急存亡之秋也、然侍衛之臣不懈於内、忠志之士忘身於外、蓋追先帝之殊遇欲報之於陛下也、誠宜開張聖聴以光先帝遺徳恢弘志士之気、不宜妄自菲薄引喩失義、以塞忠諌之路也、宮中府中、倶為一体陟罰臧否、不宜異同、若有作姦犯科、及為忠善者、宜付有司論其刑賞以陛下平明之治、不宜偏私使内外異法也、侍中侍郎、郭攸之費褘、董允等、此皆良実志慮忠純、是以先帝簡抜、以遺陛下、愚以為宮中之事、事無大小、悉以咨之、然後施行、必能稗補闕漏有所広益、将軍向寵性行淑均、暁暢軍事、試用於昔日、先帝称之曰能是以衆議挙寵為督、愚以為営中之事、事無大小、悉以咨之必能使行陣和睦、優劣得所、親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也、親小人遠賢臣此後漢所以傾頽也、先帝在時、毎与臣論此事、未嘗不嘆息痛恨於桓霊也。侍中尚書長史参軍、此悉貞亮死節之臣也、陛下親之信之、則漢室之隆、可計日而待也、臣本布衣、躬耕南陽、苟全性命於乱世不求聞達於諸侯、先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、三顧臣於草廬之中、諮臣以当世之事、由是感激、許先帝以駆馳、後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間爾来二十有一年也、先帝知臣謹慎、故臨崩、寄臣以大事也、受命以来、夙夜憂慮恐付託不効、以傷先帝之明、故五月渡濾深入不毛、今南方已定、兵甲已足、当奨率三軍北定中原、庶竭駑鈍攘除姦凶、以復興漢室、還于旧都。此臣所以報先帝、而忠陛下之職分也、至於斟酌損益進尽忠言、則攸之、褘、允之任也、願陛下託臣以討賊興復之効、不効則治臣之罪以告先帝之霊、責攸之、褘、允等之咎以彰其慢、陛下亦宜自謀以諮諏善道、察納雅言、深追先帝遺詔、臣不勝受恩感激、今当遠距離臨表涕泣、不知所云。      後出師表 先帝慮漢賊不両立、王業不偏安、故託臣以討賊也、以先帝之明量臣之才、故知臣伐賊才弱敵彊也、然不伐賊、王業亦亡、惟坐而待亡、孰与伐之、是故託臣而弗疑也、臣受命之日、寝不安席、食不甘味、思惟北征、宜先入南、故五月渡瀘深入不毛並日而食、臣非不自惜也、顧王業不可得偏安於蜀都、故冒危難以奉先帝之遺意、而議者謂為非計、今賊適疲於西、又務於東、兵法乗労、此進趍之時也、謹陳其事如左、高帝明並日月、謀臣淵深、然渉険被創、危然後安、今陛下未及高帝、謀臣不如良平、而欲以長策取勝、坐定天下、此臣之未解一也、劉繇王朗各拠州郡、論安言計、動引聖人、群疑満腹、衆難塞胸、今歳不戦、明年不征孫策坐大、遂並江東此臣之未解二也、曹操智計殊絶於人其用兵也、髣髴孫呉、然困於南陽険於烏巣危於祁連偪於黎陽、幾敗北山、殆死潼関、然後偽定一時爾、況臣才弱而欲以不危而定之、此臣之未解三也、曹操五攻昌覇不下、四越巣湖不成、任用李服而李服図之委任夏侯而夏侯敗亡、先帝毎称操為能、猶有此失、況臣駑下何能必勝此臣之未解四也、自臣到漢中中間期年耳、然喪趙雲、陽群、馬玉、閻芝、丁立、白寿、劉郃、鄧銅等、及曲長屯将七十余人、突将無前、賨叟青羌、散騎武騎、一千余人、此皆数十年之内所糾合四方之精鋭、非一州之所有、若復数年則損三分之二也、当何以図敵、此臣之未解五也、今民窮兵疲両事不可息事、不可息、則住与行労費正等而不及蚤図之欲以一州之地与賊持久、此臣之未解六也、夫難平者事也、昔先帝敗軍於楚、当此時曹操拊手謂天下已定、然後先帝東連呉越、西取巴蜀挙兵北征、夏侯授首、此操之失計、而漢事将成也、然後呉更違盟関羽毀敗、秭帰蹉跌曹丕称帝、凡事如是、難可逆見臣鞠躬尽瘁、死而後已、至於成敗利鈍非臣之明所能逆睹也。 孔明は武人の亀鑑として古来士人の尊崇の的となつてゐたので、その像を画いたものも少くない、秋元子爵家旧蔵のものに昌運の作があり、探幽や常信にもその作がありその伝記中の一節である草廬三顧万里橋五丈原等悉く好画題として扱はれてゐる。 (『東洋画題綜覧』金井紫雲)