七福神

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総合

しちふくじん。

市村座の脇狂言

本文

夫いざなみいざなぎ夫婦より合まん/\たるわつみに 天のさか鉾おろさせ給ひ ひきあげ給ふ其したゝり こりかたまりてひとつの島を月よみ日よみ蛭子そさのをもうけ給ふ 蛭子と申はゑびすが事よ 骨なしかわなしやくたいなし 三とせ足立給はねば 手くる/\/\来る船にのせ 奉て青海原へ流し給えば 海をゆずりにうけさせ給ひ 西の宮のゑびす三郎いともかしこき釣針おろし 万の魚をつりつつた姿はいよ扠しほらしや ひけやひけ/\ひくもの品/゙\さまがきわずみ琵琶や琴鼓弓三味線しのゝめ横雲そつこでひけ小車子供たちこざれ 宝引しよ/\と帆綱引かけ宝舟ひゑて来たいざやわかいしゆ網ひくまいか沖にかもめのはつと/\立たは三人ばりつよ弓ひよッひきひやうりひよッと射落せばさ浮つ沈つ浪にゆられて沖のかたへひくとの水無月なかば祇園どのゝ祭山鉾かざり渡拍子で引て来た 合 ひやうしそろえて打や太鼓の音もよさ 鳴かならぬか 山田の鳴子/\引はからころかゝりころり/\かうころ/\/\やくつばみそろえて 神の駿馬をひきつれ/\いさみいさむや手代の御神楽 合 神の利生はつげの櫛/\引七五三縄のながきゑにしをしちふくじん


画題

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解説

画題辞典

宝船、或は其の他に画きて、目出たき表徴とする七個の神仙なり、壽老人、大黒天、福禄壽、恵比壽、弁財天、毘沙門天、布袋和尚之なり。伝ふる所に曰く、徳川家康嘗て天海僧正に富国繁榮の法を問ふ、天海曰く、仁王護国経を讀誦し善く其の意を行はば、七難即滅七福即生疑なからんと、家康曰く七福とは何ぞ、曰く壽命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量なりと、即ち此意に拠りて七福を画かしむ、是れ七福神ある初めなりと、爾来江戸時代に於て世の需むるものゝ多きに、画家の之を画くもの甚だ多し、

狩野松榮画く所最も古しと伝へらる、黒田侯爵蔵に狩野探幽の図あり、明治大正に於ても雅邦廣業大観観山春草等図あり、尚各神に就きては各その条廣を見るべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

七福神とは、恵比寿、大黒天、毘沙門、福禄寿、寿老人、弁財天、布袋である、何人がこれを集めたかに就いては種々の説があり、天海僧正が家康の問に答へたものといふ説が広く流布してゐる、これは家康が僧正に富国繁栄の法を問うと、天海は仁王護国経を読誦して、よくその意を行はゞ七難即滅し七福生ずること疑ひなしと、开で、家康は更に、七福とは何かと問うと、寿命、有福、人望、清廉、愛敬、威光、大量であると、即ちこの意に基いて絵師をして画かしめたもの七福神で寿命は南極寿星の寿老、有福は大黒天、人望は寿老と同じ福禄寿、清廉は恵比寿、愛敬は弁財天、威光は毘沙門天、大量は布袋和尚である。一説には七福神は足利時代に於ける、名数に拘泥して神仏を祈念するといふ流行から生れ、僧瓊春が始めて之を画いたともいふ。

これが盛に縁起物として画かれるやうになつたのは徳川時代で、唯に七福神の集合ばかりでなく、或は宝船に乗る図を画くあり、琴棋書画に興を催すあり、浮世絵では青楼遊興の図まで画いてゐる。

主な作左の通りである。

尾形光琳筆                 松沢家旧蔵

酒井抱一筆                 浅田家旧蔵

狩野柳雪筆                 池田侯爵家旧蔵

喜多川歌麿筆  『七福神遊興』三枚続版画

奥村政信筆   『踊り七福神』丹絵

歌川豊国筆   『七福神乗合船』

なほ個々に就いては各項(恵比須大黒天毘沙門福禄寿寿老人弁財天布袋)を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)