牧野省三について

   

マキノプロジェクトII

牧野省三紹介

マキノ映画紹介

プロジェクト連絡先

 
 
牧野省三は1901年に西陣・千本座の座主となり、08年に横田永之助(後の日活社長)に映画制作を依頼されて以来、12年の日活設立から21年まで膨大な数の映画を監督し、黎明期の日本の劇映画に多大な貢献をなす。その後日活から独立し、主にプロデューサーとして活躍するが、29年に心臓麻痺のため没。省三が日本映画を語るうえで極めて重要な位置を占める人物である理由を挙げるならば、次の3点になるだろう。

 (1)20世紀の京都の地場産業に発展した映画産業の誕生と発展を担った人物
 日本の2大映画都市のひとつである京都にはじめて撮影所が建設されたのは10年の通称・二条城撮影所であるが、この頃映画という新興メディアが他の芸能と覇を争う程に成長してきた。そのような時期に必要とされたのは、観客に新しい刺激を供給し続ける大量の劇映画作品であった。その数年前から横田永之助に劇映画制作を全面的に任されていた省三はその要求に応え、莫大な量の映画を監督し、映画都市・京都の基盤を作ったのである。

(2)俳優やスタッフの才能を開花させる名プロデューサー
 
省三のプロデューサーとしての才能は、類い稀なる人材の発掘・育成能力に端的に現れている。尾上松之助という小芝居の旅役者を日本初の映画スターに仕立てあげたのが省三であれば、長男・マキノ雅広や金森万象などの監督、次男・マキノ光雄のようなプロデューサー、そして寿々喜多呂九平や山上伊太郎といった脚本家を育成したのも省三である。さらに阪東妻三郎、月形龍之介、市川右太衛門、嵐長三郎(寛寿郎)、片岡千恵蔵などの時代劇スター達も省三のもとで修行を積み、その後独立していった。牧野省三が「日本映画の父」と呼ばれる所以のひとつはこの点にある。

(3)独立プロダクション運動の旗手
 省三は同時に、日活や松竹という大手映画会社に対して旗揚げした独立プロダクション経営者の旗手でもある。省三は21年に教育映画の製作を志して日活を退社し、等持院境内に「牧野教育映画製作所」を設立して念願の独立を果たす(現在、等持院墓地南西隅には 「マキノ省三先生像」が建っており、独立の地を静かに見おろしている。右写真参照)。彼は同時に牧野商會を自宅に設置し、その工作部で,まだ当時一般に普及していなかった家庭用映写機を製作・販売して独自の配給網を開拓した。さらに25年、御室に設立した「マキノプロダクション」は、自由製作・自由配給を謳った先駆的な撮影所であり、省三の運動に刺激され、昭和初期には数多くの独立プロが誕生している。大手映画会社の支配に束縛されまいとする省三の活動は、戦後を含めた独立映画プロダクション運動を考察する際の重要な参照項となり続けている。

マキノ等持院撮影所
マキノ等持院撮影所
(1921-1925年)





マキノ省三像
かつての撮影所跡地を見下ろす等持院境内のマキノ省三像

Copyright (c) 2003, Makino Project, Art Research Center, Ritsumeikan University
更新:2003/12/15 M.TOMITA