マキノ映画活動史

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社名

年月

内  容

撮影所

ミカド

 商会

1919.07

長年コンビを組んできたスター・尾上松之助との関係が悪化し、日活からの独立を目論んでいた牧野省三は、ようやく教育映画制作専門のミカド商会を設立。しかし省三は日活に在籍したままの活動を余儀なくされ、完全な独立には至らない。

等持院撮影所時代

 

1920.01

ミカド商会は半年も経たずに再び日活の教育映画部に買収・併合され、省三は独立に失敗。

牧野教育映画

 製作所

1921.04

省三は興行映画を製作しないことを条件に日活を退社し、6月には牧野教育映画製作所を設立して悲願の独立を果たす。

        09

等持院境内に独立のシンボルとなる等持院撮影所を建設し、教育映画の製作に本格的に着手。映画館への配給網を持っていないため、委託の宗教映画なども積極的に制作。

マキノ映画

 製作所

1923.04

省三は株式会社マキノ映画製作所を設立して本格的に劇映画製作に着手。独自に配給網を開拓して行く。

        07

寿々喜多呂九平がシナリオを担当した『浮世絵師 紫頭巾』が封切りされ、旧劇映画に新風を吹き込む画期的作品となりマキノ映画が世に知れ渡る。

東亜キネマ

 

1924.08

配給網の弱いマキノ映画は借金が累積していたため、東亜キネマに吸収され(マキノ等持院撮影所は東亜等持院撮影所となる)、等持院と甲陽の両撮影所長に牧野省三が就任。

1925.01

撮影所内で東亜派とマキノ派に対立がおこり、東亜マキノ等持院と改称。

        03

等持院撮影所が失火により焼失。大損害となる。

マキノ
・プロダクション

 

1925.06

牧野省三が御室の天授ヶ丘に新たにマキノ・プロダクションを創立して独立(マキノ御室撮影所)。東亜キネマに在籍していた旧マキノ系所員の多くも御室撮影所に加入。

御室撮影所時代

1926.01

映画会社四社が連盟の下にすすめた独立プロダクション作品のボイコット運動を、マキノ・プロダクションが打破する。時代劇、現代劇ともに増強体制を整え、時代劇では立ち回りに頼らない作品も試みる。

1927.01

省三は一世一代の超大作『実録忠臣蔵』の製作を開始。

        05

マキノ・プロの発展に伴い、名古屋中部撮影所が完成。早速『実録忠臣蔵』松の廊下シーンのセット撮影にかかる。

1928.03

省三が前年から精魂こめて制作していた『実録忠臣蔵』のフィルムが編集中に失火し、マキノ本宅と大量のネガ・フィルムが消失してしまう。省三はこの事故以後、体調を崩す。

        11

省三ははやくもトーキー映画の研究に着手。

1929.06

先駆的な国産ディスク式トーキー『戻橋』(マキノ正博監督)封切。

        07

牧野省三死去。御室撮影所で神式の盛大な葬儀が営まれた。

        09

省三死後50日をむかえ、マキノ・プロダクション新体制が組織される。

        12

ダグラス・フェアバンクスとメリー・ピックフォード夫妻が、御室撮影所を訪問。

1930.11

企画部が設置される。この年、『祇園小唄』『鴨川小唄』など地元京都情緒をふんだんにとりいれた小唄映画が製作・公開される。

        12

給料未払いによるストがおこり経営困難になる。

マキノ

 映画

1931.05

(新)マキノ映画株式会社が創立され再出発をはかる。

        10

映画製作は行われないまま解散。御室の地に6年間続いたマキノ・プロに終止符。

大衆文芸

 映画社

1932.02

大衆文芸映画社の高村正次や立花良介が、マキノ正博と組んでマキノの再興をはかり、御室撮影所跡地に正映マキノキネマを設立。撮影所を不審火による火災が襲う。

 

 

        03

大衆文芸は3本の映画を製作して解散。マキノ正博など主要メンバーは日活へ入社。

 

 

 

1933

マキノ正博は日活を退社し、北野の自宅に京都映音というトーキー録音・現像のスタジオを設け、録音技術研究に着手。第一映画の録音・現像などを担当する。

 

マキノ

 ト|キ|

1935.11

録音技術の経験を積んだマキノ正博は、正映マキノの倒産以来3年ぶりに改めてマキノ再興を企図し、太秦帷子ヶ辻中開町(現・松竹京都撮影所)にマキノ・トーキー製作所を設立。

太秦撮影所

 

 

1937.03

マキノ・トーキーは経営難に陥り解散。所長のマキノ正博は日活京都へ入社、所員の多くは各撮影所へ移籍し、さらに活躍を続ける。

 

Copyright (c) 2003, Makino Project, Art Research Center, Ritsumeikan University
更新:2004/03/15 M.TOMITA