B1-3 小督
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「月耕随筆」 「小督 嵯峨野庵」
作者名:尾形月耕 版型:大判錦絵
所蔵:UPS Marega 作品番号:MM0629_08.
【解説】
この絵を描いた尾形月耕は明治-大正時代の日本画家である。安政6年9月15日生まれで、独学で絵をまなび人力車の蒔絵(まきえ)や輸出用七宝焼の下絵をかく。明治20年前後「絵入朝野新聞」などおおくの新聞,雑誌に挿絵,口絵などを制作した。この絵は明治三十年八月五日印刷 同月十五日発行の「月耕随筆」というシリーズの中の一枚である。
小督は四人の中でも特にその悲恋性に特化して後世に伝えられている。小督は宮中随一の美人で琴の名手として高倉上皇に寵愛されていたが、平清盛の娘たちの恋敵となったため清盛の怒りを買って嵯峨野に身を隠すこととなる。上皇は源仲国に捜させ、仲国は月夜の嵯峨野の小家から漏れる琴の音の「想夫恋」の調べを聞き付け、これに自分の笛を合せて、小督と邂逅する。この嵯峨野の月夜のくだりがもっとも有名で、今回提示したこの絵もまたその場面を描いている。ここで仲国が小督を見つけるきっかけとなるのが「想夫恋」であるがこれは雅楽の曲名である。本来は「相府蓮」。「想夫憐」「相夫恋(憐)」とも呼ばれる。唐楽、平調、新楽、中曲で舞はない。詠があったが絶えたといわれている。筝の琴との関連でいうと、婿を取ったときに奏する、弾くと離別した夫が戻るなどの説がある。この曲によってより高倉天皇と小督の別離が引き立てられ、清盛の横暴さが強調されているように思う。 (窪)
能/謡曲では「小督」としてある。観世、宝生、金春、金剛、喜多流であり、四番目物、侍物、大小物とある。作者は金春禅竹。内容は平家物語の中で語られているものと大きな差はなく、平曲の筋を舞台化した能だが辞去の前に仲国が盃を受けて舞を舞うというように仕立てられている。嵯峨野を馬上で尋ねまわるところ、帝の心を知った小督の感慨、仲国の舞が中心となっている。
近松門左衛門の浄瑠璃「仏御前扇軍」では、第二 右近の馬場、第四 嵯峨野の名月、嵯峨野の庵室にて登場する。第二 右近の馬場では雲林院のお墓詣でで小督の牛車と祇王の牛車が角突き合わせ、小督の付き人は追い散らされ小督は牛車を下り嘆き泣く。祇王の牛車からは宗盛が下りてきてこれは恋ゆえの知略といい口説き始める。小督は朝敵神敵と抗して従わないため、怒って脅した末牛裂きにするという。すると宗盛を主君の敵と狙う信連が小督の絶体絶命を助け宗盛を切ろうとするが、宗盛に仕える景清が飛んできて小督を人質にとって逃げた。小督は宗盛を討てといい、宗盛は恥知らずに命乞いをしたため互いに取り換え引き分け、今後は運次第の対面をしようと帰る。信連は小督を嵯峨野の庵へと忍ばせた。第四 嵯峨野の名月、嵯峨野の庵室ではまず天皇が小督との愛別離苦を嘆き仲国に小督のもとへ連れていくよう哀願するところから始まる。天皇と仲国は都から嵯峨野へ向かい、仏御前に案内されて祇王、祇女、小督らが打ち解けて住む庵室へ着いた。天皇は尼にもてなされ、仲国は酒を買いに出た。そこに宗盛が小督を再び奪おうと天子の姿をして偽って想夫恋を吹き鳴らすが、顔も見せないので乗り込むと忍びの御幸を知り、天皇を捕える相談をした。仲国が戻って切り捲ったが天皇を宗盛が取り押さえ小督を賜りたいと迫るが信連と正俊が戻り宗盛を殺そうとする。しかし正俊が重盛へある恩を思い、家来のみを殺し宗盛を逃がした。天皇は信連らに平家追討の勅宣をだし仲国の供で都へ戻った。
この中では高倉天皇と小督の悲恋が宗盛の横恋慕によって引き起こされ、そこに敵討ちなどの人間関係が加わってくる娯楽性の強いものとなっている。とくに有名な想夫恋は小督を騙して庵室から引き出すためのきっかけとして使われていて、いかにこの小督の嵯峨野での物語が一般に知られていたのかが理解できるようにも感じる。川柳では、清盛に追いやられ嵯峨野に隠れているということに焦点が当てられている。
・サガされぬところへ小督かくれてる
これでは「探されぬ」と「嵯峨」がかけて表現されている。
・小督が庵に忍び音の轡むじ【参考文献】
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・尾形月耕 『japanknowledge』[日本人名大辞典] http://japanknowledge.com/lib/display/?lid=5011061151800 (2017/12/07 11:45)
・想夫恋 『平家物語大事典』P.216
・小督 『能狂言事典』 P.63
・近松門左衛門 『近松全集第十四巻』浄瑠璃「仏御前扇軍」P.275-399
・『新編川柳大辞典』P.273 -
- 投稿日:
- by 8P
- カテゴリ: B 源平合戦の女たち,B1 清盛と女たち
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