B1-6 雷電為右衛門最後の番付

年代:文化8年(1811)2月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-105

 画像は大豪雷電為右衛門の最後の場所の番付。西大関に名前はあるが出場していない。寛政2年11月場所に関脇に付け出されて初登場して以来足掛け21年の幕内生活であった。その戦績は総取組数285、勝254、負10、預14、引分2、無勝負5であった。当時はもつれた相撲や際どい相撲で現在なら物言いがつくような場合は預あるいは無勝負と裁定された。引分は相撲が長引いて双方取り疲れ決着がつかない場合引分けとなった。雷電の成績は負がわずか10と少ないことも驚異であるが、当時の勝負事情を鑑みて引分が2回と極端に少ないことも驚くべきことである。つまり雷電との対戦では、相手は雷電に対して粘って長く取るという相撲をさせてもらえなかったのである。

 雷電は谷風の内弟子となったため谷風との対戦は無かった。谷風がインフルエンザに罹り現役で急逝した後、もう一人の横綱小野川も晩年にさしかかっており雷電に抗することはできなかった。西の大関雷電に対して東の大関は小野川を始め11人もの大関が対抗したが、雷電に勝つことができたのはわずか柏戸が一度のみで、他の大関は全く雷電に歯が立たなかった。同じ相手に二度負けたのは花頂山のみであった。雷電の逸話で有名なものに張り手・かんぬき・鉄砲の三手を禁じ手にされたというものであるが、当時の記録には無く雷電没後37年忌の文久元年(1861)同郷の佐久間象山が作った碑文に書かれている。また雷電は諸国を巡業した中、その旅日記を『諸国相撲控帳』として残した。興行場所・成績・上り高など詳細に書き記しており、剛勇無双の力士でありながら教養ある綿密几帳面な性格でもあった。文政8年(1825)2月11日病の為59歳で死去した。江戸赤坂の報土寺に葬られた。墓は現在でも同寺にある。