A5 晴天八日から晴天十日へ

年代:安永7年(1778)3月
所蔵:小島コレクション
資料番号:kojsp02-014

 この場所から晴天8日から晴天10日の興行となる。『武江年表』安永七年の項に「〇相撲興行の日数、昔は晴天八日成りしが、今年三月二十八日より、深川八幡宮境内において興行ありしより、十日と成りし由「我衣」に見えたり。」とある。画像は安永7年3月場所の番付で、晴天10日になったことは番付の右肩の記載によって判明する。


 番付に見える大関は東は絵島潟灘右衛門、阿波の出身で体が大きかったためいきなり大関に付け出された。ところが出場せず看板大関であった。西の大関は鳴沢音右衛門。越後出身の巨人力士で同じく最初から大関デビューであった。鳴沢は当初看板大関であったが実力も伴った大関で、この場所は6勝無敗と好成績。後に鷲ヶ浜と改名しその後20年の長きに渉って大関関脇として活躍した強豪力士であった。関脇谷風梶之助は同郷の先輩伊勢ノ海が引退して仙台藩お抱え力士の最高位を襲った。実力を伴った力士が揃い興行として安定してきたことによって日数が増えたのである。