4.0 はじめに

狂歌は、和歌の「雅」に対する「俗」の韻文であり、狂詩と漢詩も同様の関係にある。狂歌の始まりについて、『日本古典文学大辞典』の記述は下記の通りである。

狂歌という語は平安時代にすでに用いられ、現に『明月記』建久2(1191)年の条に、「当座狂歌アリ」と記されているし、狂歌の上手と評される歌人もいた。しかし、歌道の権威を憚って、狂歌は「言捨て」るのが不文律となっていたから、記録されることはなかった。(浜田義一郎記) 
 近世になると狂歌が盛んになる。その流れについて、同じく浜田義一郎氏(1)は、下記のように述べている。
近世狂歌には二つの流れがある。一は前代末期から京都を中心とする貴族の間で行われ,次第に庶民の間に普及して、大阪を中心とする所謂浪花狂歌の大流行となった流れ、他は近世後期に入ってから江戸の武士間に起って、江戸市民がこれを追従し、全国的流行にまで圏を拡げていった流れである。

 『家つと』 は、上方で大流行となった浪花狂歌の中心的存在の油煙斎貞柳の家集である。『吾妻曲狂歌文庫』 は、江戸において、一部の人たちの間で盛んになった天明期(1781~1790)のもので、その後、江戸の大衆の間に流行が広まり、それが全国的な展開となった。
 大衆の間に流行が広まると、「狂歌合」が盛んになる。これは狂歌師に出題と採点を依頼して、に入花料(ゆうかりよう)を取って公募し、優秀な作品には賞品等を出すとともに、刷り物にするというものである。当文庫の狂歌本には、狂歌合関連のものが多いようである。また、その公募のための引札等(nakai805)がある。
 江戸時代後期のものとして、ここでは、『千紅万紫』を採用した。これは、江戸の狂歌・狂文集である。
 狂詩も人気があったが、素養が必要であったため、狂詩をたしなめる人は限られていたと考えられる。当文庫の点数は、狂歌冊子 285、狂歌一紙もの109、 狂詩 17である。