E03役者紋の使われ方

「紋番付」
版型:半紙本3丁
上演:天保6(1835)年9月19日江戸・市村座
資料番号:arcBK02-0078-117 所蔵:立命館大学ARC.

【解説】
 江戸の役割番付は、3枚の半紙を横長に貼り付け、配り手の左手に何枚もの番付を下げて一枚一枚観客に配ったものである。この役割番付には、早い段階から役者の紋の一覧(紋付)がついており、当時の観客は一目でどの役者が出演しているのかを確認することができた。紋の位置によって、役者の格が決まっており、たとえば本図では、右の二段目、三代目尾上菊五郎が座頭である。この場合、2枠を座頭の尾上菊五郎が、占めており、左の二段目には、五代目市川海老蔵(前の七代目市川団十郎)が同じ2枠を使って占めている。つまり、この興行では、座頭こそ菊五郎が務めたが、菊五郎と海老蔵は同格であり、かつ他の役者とは別格であったことが、紋付によって観客に伝わる仕掛けである。最上段、櫓紋の左右には、4枠の役者がおり、これは実際の劇場表の矢倉下の4枚看板と名前が一致しており、女形と若衆のトップスターが並ぶ。右側櫓脇に掲出されているのが女形首座の立女形である。この番付では、まだ13歳の八代目市川団十郎が左側櫓脇に置かれている。
 役者にとって紋は、家の象徴であったため他の家の家紋を勝手に使うことはできなかった。役者はこうした紋を自分の象徴として衣装や用具、暖簾や提灯にも紋を使用していた。こんなエピソードもある、初代市川団蔵は初代市川団十郎に可愛がられ、紋も市川家の三升を使っていた。だが二代目団十郎とは仲が良くなかったようであり、正徳5年(1715)11月に団蔵が森田屋で「早咲女島原」の荒獅子男之助を演じたとき、二代目団十郎とついに喧嘩別れとなった。そのとき二代目が、「以後、市川家の三升の紋の使用はまかりならぬ」と申し渡すと、団蔵は三升の紋に「一」の字を引いたという。その後、間に立つ人がいて、二人は十六年後の享保16年(1731)にようやく和解し、団蔵はまた三升を用いるようになったが、枡の形は正方形にしないで、縦長の三升にしたという。(岡.)