C06座席と値段
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「明治二十年三月五日開場定価表」
判型:大判墨摺
上演:明治20年(1887)3月5日名古屋・千歳座
資料番号:arcSP03-0045 所蔵:立命館ARC.【解説】
明治20年千歳座が発行した座席価格表。大須に明治14年に開場した真本座が明治18年5月桑名町に移転した際に、千歳座へ改称した。明治期の名古屋において千歳座は大劇場にあたり、そのほか末広座・新守座・音羽座が大劇場とされていた。本図は、明治20年3月5日一番目狂言「妹背山女庭訓」時の興行の際に発行されたものである。
明治に入り、芝居番付に座席の金額が表記されるようになり、観客席のルールもこの時期に変化があらわれる。江戸時代の観客席では、桟敷は茶屋の案内、土間は出方の案内もしくは木戸銭を入り口で支払い入場するといった形式であった。しかし、明治になると日本全体に欧化政策の動きがあらわれ、演劇や劇場にも大きな影響を与えた。本図は、明治20年と時期としては早い段階の客席値段表である。
本図は北側桟敷・土間・南側桟敷と分かれている。南側桟敷席に「御役場」と書かれた検閲席があるが、検閲席については、「久松座新舞台繁栄図」に詳細を記述する。
桟敷は北側・南側共に「高桟敷」「下桟敷」「出桟敷」と3種類に分かれている。北側は高桟敷が七十五銭、下桟敷・出桟敷が八十五銭となり、一般的な桟敷席の形態をとっている。それに比べ南側は「ヨリ御壱人五銭」と書かれている。明治19年4月に大入りのため桟敷席の底が抜けたと報じられていることからも南側の桟敷は追い込みで、人数制限をかけていなかったと考えられる。土間は前から13列目までは全て三十銭で、14列目から二十四銭と価格が少し下がる。十七列目から二十列目までは価格の記載がないことから追い込み席として使用されていたと考えられる。この頃の千歳座客席にはまだ椅子席の導入はされていない。ちなみに、現在では座席ごとに番号が付き指定席として確保する形式が一般的であるが、この形式が確立されるのは、明治44年開場の帝国劇場である。
本図には、「付言」として劇場側から観客に対する文章が記載されており、料金表以外の金銭のやり取りを禁止する旨が伝えられている。(青.)
【翻刻】
真本座(千歳座)は明治18年5月移転時に劇場を新築しており、東京の新富座を模した近代的な劇場へと姿を変えたことが名古屋絵入新聞で次のように報じられている。
「・・・今度移転の劇場は専ら東京新富座の築法に倣ひ、見物場残らず板張の上へ畳を敷つめ看場横に広く、上場奥浅く、十外は平場になし、桟敷鶉を第一等の場として空気流通をよくなし、看客の衛生を心掛くるの築造なれば出来の上は本区第一等の檜舞台上小家となるや・・・」(名古屋絵入新聞5月26日)
また、千歳座は新築開場に際し明治18年12月頃に"茶屋婆々"を劇場から廃しする意向を示し、茶屋としばしば衝突していた。茶屋婆々とは、東京には無い制度で東京の出方に近い役割を果たしていた。主に弁当運び、初日前に番付を配り、観客の呼び込み等を茶屋が担い、その茶屋の店主が皆老婆であったことから茶屋婆々と呼ばれるようになった。当時の劇場は大劇場であっても粗末な造りで、茶屋はそれ以上だったようで、名古屋で初めて東京式の近代的な劇場を模した新守座は茶屋婆々の廃止と劇場専属の茶屋を建てた。この新守座の動きに千歳座も便乗したと考えられる。
千歳座は明治19年1月1日に開場式を迎え、以後毎興行大入りをみせる。そんな中、明治19年4月に大入りによって千歳座の桟敷席の底が抜けるという事態となる。この時、どの程度の破損であったかはわからないが、底が抜けたことによって下敷きになった観客が10名ほどいたと報じられていることから、破損は一部であったようである。この記事は絵入黄金新聞4月2日の記事であり、本文中に「一昨日」とあることから3月31日の興行時であることがわかる。そして、4月6日からは、新たな興行は開始されていることからも、大きな破損ではなかったのであろう。
また、このことからも桟敷席は一定の人数を定めず、人を詰め込んでいた可能性があり、その桟敷席が南側の桟敷にあたる可能性が高い。(青.)【参考文献】
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近代歌舞伎年表 名古屋編
窪田徳幸『名古屋芝居の明治期―劇場と興行の変遷』(南山大学大学院地域文化研究pp.1-39)
早稲田大学演劇博物館『よみがえる帝国劇場展』