C.R 上方における役者絵の歴史

【特別解説】

上方における役者絵の歴史

 北 川 博 子 

はじめに

 浮世絵には筆で描いた肉筆画と下絵を山桜の板に彫り、それを摺っていく木版画の二種類がある。掛け軸や巻物で鑑賞される肉筆画は、注文を受けてから制作するのが基本で、値段もそれなりにする。それに対して、木版画は大量生産が可能であり、販売価格も庶民の懐に優しいものであった。浮世絵が庶民文化として広がっていくのは、やはり木版画によるところが大きい。

 江戸では元禄文化が花開いた17世紀後半から、肉筆画だけではなく浮世絵版画が出されていき、様々な技法を経て、明和2年(1765)に「絵暦」の錦絵が誕生する。絵暦とはその年の大小の月の数字を絵に入れ込んだ意匠に富んだ摺物で、文化人たちは贅を凝らして自分の暦を制作し、それらを仲間同士で交換して楽しんだのであった。それらの絵暦は数多くの色板を用いる木版多色摺、いわゆる「錦絵」で作成された。錦絵は「吾妻錦絵」とも言われ、江戸文化の華と認識されていたのであった。

大坂での錦絵誕生前夜

 江戸の浮世絵は役者絵以外に美人画も好まれたが、上方では圧倒的に役者絵が多かった。大坂で一枚物の錦絵が継続的に出されるのは、寛政3年(1791)の流光斎如圭による役者絵からである。しかし、それ以前にも大坂では少ないながらも一枚物の役者絵が出されていた。岡本雪圭斎昌房は安永期に初代中山文七を中心とした役者絵と有馬の湯女たちを描いた美人画組物を細判合羽摺として残している。合羽摺とは輪郭線は板で摺り、着色は型紙となる渋紙を切り抜き、その上から刷毛で塗っていく技法である。輪郭となる主板と数枚(時には10数枚)の色板を馬連で擦っていく錦絵は、丈夫な和紙を必要としたが、数枚の型紙の上から刷毛で着色する合羽摺は薄い紙でよく、安価な浮世絵として親しまれていた。合羽摺は主として上方で使われていた技法で、長崎絵にも見ることができるが、江戸ではほとんど制作されなかった。

流光斎の登場

「上方浮世絵中興の祖」と呼ばれる流光斎は、大坂画壇の絵師、蔀関月の弟子であり、当初、役者絵とは無関係な版本の挿絵を手がけていた。現存する作品数を見ても職業絵師ではなく、生業が別にあったように思えるが、これは当時の大坂では基本的な絵師のあり方であった。流光斎の名を一躍世に知らしめたのは肉筆の役者顔似せ扇の流行である。天明3年(1783)序の随筆『大坂駄珍馬』には、役者を似顔で依頼者の望み通りの姿で描き、人気を得ていたことが記されている。なお、本書には耳鳥斎の扇についても言及がある。耳鳥斎は鳥羽絵にも通じる軽妙な画風が人気の絵師で、役者の顔や身振りを誇張して描いた絵本『役者水や空』を安永9年(1780)に出版している。『大坂駄珍馬』には流光斎より耳鳥斎の扇の方が売れていたことが記されているが、ともに役者を描くことに秀でていた。そこに注目した表具師で絵師でもあった松本奉時は、天明8年に両者から肉筆画を寄せてもらい『梨園書画』を制作している。このように大坂では、肉筆画で役者似顔の流行が始まり、絵本を経て、一枚絵が登場するのである。

細判錦絵の時代

 耳鳥斎は肉筆画と版本の挿絵は手掛けたが、一枚物の版画作品は残していない。対する流光斎は肉筆画で人気が出た後に、天明4年に版本である役者絵本『旦生言語備』を手掛け、いよいよ一枚絵の錦絵を生み出すことになる。現在確認できる最初の作品は、寛政3年11月、大坂中の芝居上演の「仮名手本忠臣蔵」に取材した細判錦絵「桃井若狭之介 中山来助」である。大坂の錦絵は細判(およそ縦33×横15センチ)という判型で始まり、その後大判(およそ縦39×横26.5センチ)となり、天保の改革以後は大判の半分の中判(およそ縦26.5×横19.5センチ)と大きさを変えていくのが特徴である。当初いくつかの版元から役者絵が販売されていたが、やがて塩屋長兵衛が独占していくようになる。流光斎の弟子である松好斎半兵衛や画系が異なる浅山芦国などがこの時代の中心的絵師であった。

大判錦絵の時代

 大坂では文化9年(1812)に大判の錦絵が出現し、以後この大きさが主流となっていく。この時期の代表的な絵師は松好斎の弟子である春好斎北洲で、確かな筆致と豊かな色彩の秀作を次々と生み出していった。北洲よりやや遅れて登場する、浅山芦国の弟子寿好堂よし国も数多くの役者絵を手掛けた。よし国は狂歌連を組織して文芸活動も行っており、名前に「国」の字がつく多くの弟子たちは、狂歌とともに佳作ながら役者絵をも手掛けているのである。こうした活動からも、この時期の絵師たちは職業絵師ではないことがわかる。

上方における最初の職業浮世絵師は、長崎出身の柳斎重春であった。重春と北洲の弟子春梅斎北英は文政末から天保にかけて、色彩豊かな華やかな作品を多く残している。そして、この時期には摺物様式の役者絵が出現する。「摺物」とは販売用に制作される通常の浮世絵とは違い、配り物として制作されるため、彫りや摺りの技術が高く、絵の具が豪華なことが特徴である。摺物様式の役者絵は通常と同じ大判で、贔屓などに配り物にするために作成されたものではあるが、後にその板を使って彫り師や摺り師から直売されたものもあった。技術面から見ても、大坂における浮世絵の黄金期と言えよう。

また、天保期になるとベロ藍の使用もあって、徐々に濃い色彩の作品が増えていく。この時期活躍するのが初代長谷川貞信である。それまでは頭の比率が高い、こってりとした姿で描かれていた役者たちがすらりとした輪郭で描かれている。なお、貞信と同門と思われる五蝶亭貞升には興味深い作品がある。天保9年(1838)1月、大坂中の芝居上演の「仮名手本忠臣蔵」に取材した「大星由良之助 中村歌右衛門」「早ノ勘平 中村歌右衛門」「斧定九郎 中村歌右衛門」の大判錦絵三枚で、本屋清七から版行されている。そして、これらと全く同じ構図で大きさが小判(大判の4分の1。およそ縦19.5×13.2センチ)の錦絵も出されているのである。文政末から天保にかけて小判錦絵の役者絵は数多く出されていたが、彫りや摺りが稚拙なものが多く、カード形式の遊べる浮世絵として制作されたものと考えられる。対して、貞升の小判錦絵は彫り師や摺り師の名前が明記されており、その技術もかなり高い。版元印がないことから、これらもまた摺物形式の役者絵同様、彫り師や摺り師たちが版元を通さず販売していたものと思われる。

そして、天保10年代には貞信や貞升らによって、大判の半分の大きさである中判の大首絵が出されていく。これらも基本的には版元印がなく、彫り師や摺り師の直売だったと考えられる。

中判錦絵の時代

天保の改革により、役者絵の版行は5年あまり停止し、再開されるのは弘化4年(1847)になってからである。当時の禁令はお上から解かれることはないので、様子を見ながらの再開である。役者を描くことが禁止されたので、画面には役者名は記さず、「武勇」「忠孝」など武家政権が喜びそうな画題を付している。しかし、これらが役者絵であることは、役者が似顔で描かれていることから明らかであった。

再開当初、天満屋喜兵衛や金花堂小西などの版元から大判錦絵が出されているが、この版行はすぐに頓挫し、大坂では中判錦絵が主流となっていく。中判の版元印は摺られているのではなく押印が多く、彫り師や摺り師の名前が押されている作品も多い。つまり、天保の改革以降の大坂では、版元が作品を企画、絵師に下書きを依頼し、彫り師や摺り師を手配するといった通常の役者絵の版行が頓挫してしまい、彫り師や摺り師が作品を製作して版元に卸す、もしくは直売する、という形式となったと思われるのである。

中判には金銀に見える絵の具を使用したり、空摺(絵の具を付けていない板に紙を強く押しつけて模様が浮かび上がるようにする)などの技法を用いたり、模様や色板を増やした「上摺」と、安い絵の具を用い、模様や色板などを少なくした「並摺」がある。ほとんどすべての作品に上摺と並摺が確認できることから、価格を区別して販売していた様子がわかる。上摺の役者絵には、小さな画面に凝縮された芸術性を見て取ることができる。

明治時代を迎えると輸入絵の具の赤と紫が印象的な「赤絵」が多くなる。そして大判錦絵も復活するのだが、明治10年代になると版行量が少なくなり、やがて大阪の役者絵は終焉を迎えるのである。

京都の役者絵

 江戸時代の京都は、四条派はもちろんのこと、若冲や曾我蕭白などの絵師を輩出したが、みな肉筆画を手掛ける絵師であった。古都である京都では、江戸という新興都市で生まれた錦絵の技法を、あえて取り入れることをしなかったのである。吾妻錦絵を土地の好みに合わせて作り変えて販売した商都大坂とはこの点でも大きく違っていた。京都では錦絵はわずかに版行されているが、基本的には細判合羽摺と小判墨摺で役者絵は版行されていたのである。

 京都を代表する浮世絵師は有楽斎長秀である。多種多様な版本の挿絵と合羽摺や墨摺の一枚版画を手掛けている。しかも、大坂の版元から乞われて錦絵の下絵も描いている。細判合羽摺は無款のものも多いが、落款があるものは長秀が圧倒的に多い。小判墨摺は塗り絵をしたり、押し絵をしたりと手を加えて遊ぶおもちゃ絵であった。現存している墨摺はある程度の量を綴じているものも多く、収集するためのものでもあったのであろう。今日、様々なおもちゃのカードが流布しているのと同様である。ただし、対象は子どもに限ったことではなく、押し絵など手の込んだ作品も多く、大人も楽しむものでもあった。小判墨摺の絵師には、長秀をはじめ二代重春や国房などがいる。

 上方の役者絵の歴史は江戸に比べ短いが、様々な判型もあり、同時期に錦絵、合羽摺、墨摺といった違う技法が用いられ、技法の違いは用途の違いへとつながっていたのである。こうして見ていくと、当時の人々の生活にいかに浮世絵が浸透しているかを理解することができよう。そして、忠臣蔵は役者絵の中で最も人気のある画題であったことを、最後に言い添えておきたい。

(きたがわひろこ 甲南女子大学非常勤講師・国際浮世絵学会常任理事)

(注)本稿は、赤穂市立歴史博物館特別展図録No.36『上方の忠臣蔵浮世絵』(2022)に寄稿文として収録されたものを、北川博子氏の了承を得て一部修正のうえ再録したものです。