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絵師:春章〈1〉
判型:細判/錦絵
上演:天明6年(1786) 5月11日 江戸・中村座
外題:仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
配役:斧定九郎〈6〉中山小十郎
資料番号:arcUP6968 所蔵:立命館ARC。初代中村仲蔵 元文元年(1736)~ 寛政2年(1790)4月23日
初代中村仲蔵は、18世紀後半の江戸歌舞伎を代表する名優の一人である。とりわけ『仮名手本忠臣蔵』の斧定九郎や、『鏡池俤曽我』の工藤祐経、「葱売り」「娘道成寺」などの所作事において新機軸を打ち出し、実悪・色悪から舞踊まで幅広い芸域によって高い人気を博した。
仲蔵は江戸深川に生まれ、幼くして両親を失った後、4〜5歳頃より志賀山流舞踊の家に養われた。養母お俊は志賀山流舞踊の名家の出身であり、その夫中山小十郎も五代目を継いだ長唄の名人として知られていた。幼少期より舞踊や音曲の厳しい稽古を受け、さらに能楽、武芸、鼓、手習いなど多様な修養を積んだことが、その豊かな舞台表現の基礎となった。自伝『月雪花寝物語』には、養母から厳しい躾と稽古を受けた幼少期の回想が多く記されており、恐怖心を伴う稽古の描写もしばしば見られる。仲蔵は早くから、芸を身につけねばならないという強い緊張感のなかで成長したのである。7歳で役者の道に入り、子役として初舞台を踏むと、端麗な容姿と優れた芸才によって注目を集めるようになる。
しかし、その生涯は決して順風満帆ではなかった。若くして舞台を離れた時期を経て復帰した後も、養父母の死や家業の没落、妻の病などにより困窮し、一時は自暴自棄に陥ったとも伝えられる。それでも仲蔵は芸への執念を失わず、工夫を重ねた演技によって次第に頭角を現した。やがて四代目市川団十郎にも認められ、「芸気ちがい」と称されるほど芸道に没頭したという。
明和3年(1766)の『仮名手本忠臣蔵』定九郎役は、仲蔵出世の契機となった。当時、定九郎はさほど重要視される役ではなかったが、仲蔵は黒羽二重の衣装に蛇の目傘という斬新な演出を考案し、この役を屈指の人気役へと押し上げた。以後も新作歌舞伎や舞踊で独創的な演技を次々に生み出し、時に奇抜と批判されながらも、江戸歌舞伎の舞台表現を大きく刷新した。
天明5年(1785)には養父の名跡を継いで六代目中山小十郎と改め、さらに八代目志賀山萬作を号した。仲蔵は生涯にわたり定九郎を繰り返し演じており、本図は六代目中山小十郎と改めた晩年頃の姿を描いたものである。画面には、広い肩幅と厚みを増した体躯、険しい眉や深い皺、鋭い目元が表され、浪人から盗賊へと身を落とした定九郎の凄みと、円熟した名優としての迫力が強く感じられる。
仲蔵の芸は、彼の俳名をとり後代にも「秀鶴型」として受け継がれ、生涯そのものもまた、逆境から実力で名声を掴んだ役者の物語として広く語り継がれている。仲蔵は、家柄ではなく芸によって時代を切り開いた、"国宝的役者"の代表的存在であった。(戸塚)
2.1.1.〈1〉中村仲蔵
