松山城

豊臣秀吉の家臣で賤ケ岳の七本槍の一人として名をあげた加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでは徳川家康側として参戦し、その戦功として伊予を与えらた。嘉明は慶長7年(1602)標高132mの勝山山頂に五重天守を持つ本丸を置き、山麓に居住空間としての二の丸を設けたが、寛永4年(1627)城の完成を見ることなく国替えにより会津へ移った。その後蒲生氏郷の孫の蒲生忠知が入り二の丸を完成させたが、病死、後継ぎがなく断絶し、寛永12年(1635)松平(久松)定行が封じられ、以降13人、230年余にわたり親藩大名として明治に至った。五重天守は幕府への配慮からか定行によって三重三階地下一階に縮小されたが天明4年(1784)落雷によって消失し、70年後の嘉永5年(1852)再建された。その後、本丸の建物群は昭和に入り放火や戦災で門や櫓などが焼失したが、松山市は城郭の復元を行った。

姫路城や津山城と共に三大平山城の一つで天守は現存12天守の一つである。また、姫路城に次いで多い21の重要文化財を持ち、復元された建物を合わせると50もの建物がある。

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