備中松山城

備中松山城は鎌倉幕府の地頭、秋庭重信が1240年(延応2)の臥牛山の大松山に居城を築いたのが最初といわれる。秋庭氏は6代続いたが、目まぐるしく城主が変わり、毛利輝元がこの城を前線基地として城の改修を指揮したという。関ヶ原後、徳川氏の直轄領となり、小堀政次・政一親子が修築を行った。その後池田長幸が備中松山藩を起こしたが2代で後継ぎが途絶え、取りつぶしとなり、水谷氏が入る。2代水谷勝宗は標高約432mの小松山の本丸に二重二階の天守を修造するなど大改修を実施し、三大山城と称される現在の姿となったが4代で断絶し、約一年間赤穂藩の家老大石良雄(内蔵助)が城番として在城した。その後安藤氏、石川氏、板倉氏と続き明治維新を迎え、廃城となった。

現存12天守のうち唯一の山城であり、国の重要文化財に指定されている。3層の小さな構造でありながら、実用性と美しさを兼ね備えている。城の本丸は山頂に位置しており、城下町と本丸を繋ぐ急峻な山道が特徴であり、山の頂上からは、備中平野を一望できる美しい景色が広がり、防御面でも戦略的に優れた立地にある。

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