岡山城
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岡山城は旭川の西の丘陵地にあり、南北朝時代には石山城と呼ばれていた砦が存在した。その後金光備前の居城となったが1570年(元亀1)これを宇喜多直家が滅ぼし、城を手に入れ大改修に着手したが1581年(天正9)に志半ばで死去。これを受けた息子の秀長は豊臣政権下57万石の大名となり秀吉の全面的協力のもと1590年(天正18)新城の築城と城下町の整備を開始し城名も岡山城と改め1597年(慶長2)五重六階の望楼型天守の築造をもって一応の完成をみた。天守の外壁には外壁に黒く塗った下見板が張られて別名「烏城」といわれる。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後、小早川秀秋が入り、城と城下の大改造を行ったが2年後に死去。次いで入った池田氏において整備・修築が行われ1615年(元和1)城主となった池田忠雄の代に完成をみた。
天守の石垣や1階の平面が不等辺五角形をしているのも特徴の1つで、土台になった岡山の丘の地盤にあわせたためといわれている。さらに、西側には付櫓として塩蔵が付属し、天守への入口があった。また、発掘によると、宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しており、築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、豊臣政権下の有力大名である威厳を示していた。明治になり天守、月見櫓、西手櫓、石山門等数棟を残し取壊されたが、天守と石山門が空襲で焼失。現在の天守は1966年(昭和41)に、不明門、廊下門とともに鉄筋コンクリート造りで外見は当時の姿で再建された。