会津若松城
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1384年に蘆名氏によって館が築かれ、15世紀半ばには黒川城として整備され蘆名氏の居城となった。蘆名氏は戦国時代中期には黒川城を中心として会津一円に広大な版図を築いた。しかし、1589年に長い間敵対していた伊達政宗によって滅ぼされた。政宗は黒川城に居城を移すが、秀吉の天下統一に伴い会津は召し上げられた。黒川城には蒲生氏郷が入り黒川城を近世城郭として整備され、名前も若松城と改められる。1593年に7重の天守が完成した。1598年には上杉景勝が越後より入封した。関ヶ原の戦いの後は蒲生家、加藤家が城主となるもいずれも僅かな期間で改易され、1643年に徳川家光の弟である保科正之が城主となると幕末まで会津松平家(保科から改姓)の居城となった。幕末においては戊辰戦争の舞台となり会津勢は旧幕府側の主戦力として会津若松城に籠城するが、新政府軍の攻撃を受け1か月の籠城の末に降伏した。