御土居の管理

豊臣期には土居堀上の竹の管理・利用が為されていた。そして、その姿勢は徳川期にも引き継がれていった。その理由は、重要な建築資材・財源であった「竹」を管理するためである。

i. 豊臣から徳川移行期の管理体制(1600~1669年)

  • 京都所司代・竹木奉行が主導で管理
  • 御土居に隣接する寺社や村がその管理の実務を代行

ii. 徳川期の管理体制

江戸幕府の体制が完全に整うと、御土居の管理に地域差が見られるようになる。

① 西側の御土居では、北野地域を中心に、御土居近隣の寺社に預けられる形で公儀の厳重な管理体制下にあった。

② 東側の御土居では、

  • 高瀬川開削・鴨川西河原の埋め立てによる新地開発→人口増加・人の往来の活発化
  • 御土居東側に形成された新市街地の治水のために、新堤防が築かれていた

この2点によって、出入口の増加・一部付替えや取壊しが行われ、御土居の鴨川堤防としての役割が消失していた。しかし、公儀は寺社の移築の際に惣構の再構築を命じ、それを御土居として認識していた事例もある。堤防という役割が失われても、御土居上の竹が重要視されていたことを示している。

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