E 千早城

鎌倉時代末期、幕府を倒すため後醍醐天皇方の楠木正成が金剛山一帯に赤坂城(下赤坂城)・楠木城(上赤坂城)などからなる城塞群を築き、本城の上赤坂の背後に築いた詰城が千早城。1333年、20万の鎌倉幕府軍は進軍を開始し赤坂城が落城。楠木城は1ヶ月の籠城戦を行ったが水を絶たれ落城。残すは1,000人ほどが籠城する千早城のみとなったが、寄手に大石や大木を投げ落とし矢を射かけるなどの奇策や、夜襲と徹底的なゲリラ戦にあい、寄手は多数の死者を出し続けた。籠城は100日にもおよび、幕府軍が千早城に釘付けとなっている間に、新田義貞が挙兵し鎌倉幕府は滅亡へと追い込まれることとなった。その後1392年、北朝方の畠山基国に攻められ正成の孫である楠木正勝が防戦するも落城し廃城となる。

背後には金剛山があり千早川の渓谷を利用し、三方を絶壁で囲まれている。尾根上に配置された13の曲輪と、尾根につながる稜線上に配置された9の曲輪で構成されている。本丸は最高で10mの土段で囲まれている。

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