012-0499

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

総合

東海道五十三対手越の駅

【翻刻】

手越の古驛

手越の古駅は丸子の東にしてあべ川の西岸にあり

むかし中将重衡囚れて鎌倉に下り給ふ時此所に宿り給ふ

頼朝公深く痛り手越の長者が娘千寿の前といへるを御伽に付けられける

此女眉姿心様も優にして糸竹の道さえ勝れ 

琵琶琴或は今様の白拍子を舞て心を慰めわかれけるが 

重衡討たれ給ふとき墨の衣にさまをかへ 

信濃の国善光寺にて後世のぼだいをとむらひける 

千寿の遺跡今も残れり

012-0499.jpg

【題材】

翻刻から、この絵の場面は『平家物語』「千手」の場面であることがわかる。描かれている男女は、一の谷で生け捕られ鎌倉に連れて来られた平重衡と、手越の長者の娘千寿の前。この重衡と千寿の会合は、平家物語に限らず『吾妻鏡』や『源平盛衰記』にも描かれている。それぞれ多少の違いはあるものの、重衡の沐浴から酒宴、そして二人の別れを描いており、この逸話がある程度史実に基づく事を示している。

平家物語でのあらすじ

海道下のあと、鎌倉に下った重衡は、頼朝と対面する。そこでの重衡の堂々たる物言いに頼朝は心を打たれ、伊豆の豪族宗茂に重衡の身を預ける。その宗茂邸では湯殿が設けられ、その世話に美しい女房、千寿の前が遣わされる。 その沐浴の際、重衡は頼朝に出家尾願い出るが、重衡は私敵ではなく朝敵であるため、自分の一存では決められないと許さなかった。その夜、酒宴が開かれる。初めのうち、重衡は興ざめしたような様子であった。 重衡を励ますように、千寿は延命を神に願う漢詩を詠むが、すでに南都炎上の大罪を犯し神にも見放された重衡は、罪が軽くなるものならばという。そこで千寿が弥陀の慈悲をたたえる歌を歌うと、初めて杯を傾けた。その後、重衡は琵琶、千寿は琴を取り、五常楽や皇襄の急を弾いて夜を過ごした。最後には重衡が千寿を引き止め、漢詩を朗詠する。その後二人は分かれるが、それを立ち聞きしていた頼朝は重衡の芸のすばらしさを称え、後々まで語り草となった。 重衡が処刑されたと聞いた千寿は、濃い墨染に身をやつし、信濃国善光寺で重衡を弔いながら余生を過ごした。


【千手の場面の違い】

同じ千手の場面を描いていても、作品、諸本によって記述が少し異なっている。平家物語の諸本も違いはあるが、概ねの流れは変わらない。しかし、『平家物語』と『吾妻鏡』、『源平盛衰記』の間では流れや登場する人物に違いがある。 『平家物語』の中の重衡は、初めのうち宴に乗り気ではない。しかし、千手の詠む漢詩に心打たれ、次第に打ち解けていく。

千手の前、酌をとる。三位中将少しうけて、いと興なげにておはしけるを、

千手前やがて、(中略)という今様を四五反うたひすましたりければ、其の時杯をかたぶけらる。 『平家物語全注釈』下巻(一) 富倉徳次郎 角川書店 1967年

という記述にその様子が描かれている。それに対して、『吾妻鏡』の中での重衡は、初めから酒宴を楽しみ、自ら楽器演奏をするなど、かなり明るいイメージで描かれている。 また、『平家物語』では千手が琴、重衡が琵琶を演奏したのに対して、『吾妻鏡』では千手が琵琶、重衡が横笛を吹いたとなっている。

『源平盛衰記』では、重衡の描かれ方や楽器などは『平家物語』に通じているが、『平家物語』には登場しない人物が登場する。しかも『源平盛衰記』では、二人が別れた後の話が大きく違うのである。 『平家物語』の千手と重衡のその後は先に記述したように、重衡は別れた後すぐ奈良で処刑され、千手は彼を弔い尼になったというものであった。しかし『源平盛衰記』では、その後頼朝が二人の仲立ちをし、何度も会っているのである。しかも、千手に打ち解けようとしない重衡に対し、頼朝はさらにもう一人の遊女を遣わす。それが平六兵衛の姪の伊王の前。頼朝は重衡を鎌倉で寂しくさせてはいけないと考え、二人に夜毎交代で重衡に仕えさせる。そして、しばらく重衡は伊豆に留まるが、奈良に移される。 重衡が奈良で処刑されたと聞いた二人は出家を願い出るが、頼朝は許さなかった。しかし二人はその後念仏を唱え続け、三回忌に出家し重衡を弔った。


【手越宿を利用したという記述】

手越宿が利用されたという記述は鎌倉期に多く見られる(手越宿のページ参照)。その中に頼朝の記述も見られる。

  建久四年(1193)五月、源頼朝は富士野で狩を行った際に旅館に手越ね遊女を召し、手越少将という名の遊女がいたことは有名。『角川日本地名大辞典 22 静岡県』 竹内理三 角川書店 1982年

  これを示す記述は『吾妻鏡』の中にある。

建久四年 五月十五日 藍澤の御狩事終りて、富士野の御旅館に入御す。南面に當りて五間の假屋を立つ。御家人同じく詹を連ぬ。狩野介は路次に参會す。北条殿はあらかじめその所に参候せられ、駄餉を獻ぜしめたまふ。今日は斎日によつて、御狩なし。終日酒宴なり。手越・黄瀬川已近邊の遊女群参せしめ、御前に列参す。『全譯 吾妻鏡』 貴志正造 新人物往来社 1976年


このように、実際に手越の宿に宿泊したのは、重衡ではなく頼朝である。しかもこの時、頼朝は手越の少将という遊女と親しくなっている。


【本文と絵についての疑問】

本文では、関東下向の際に、重衡が手越宿に泊まったと書かれているが、実際に宿泊したのは池田宿であり、[1]頼朝との対面のあと移されたのも、狩野介宗茂邸であると思われる。つまり、重衡と手越宿との関わりは、『平家物語』の中ではないのである。 手越宿と『平家物語』「千手の場」の関係は、千手が手越の長者の娘であるというつながりだけということになる。しかも、先に記述したように、手越宿での逸話は、頼朝の話が有名なものとしてある。にもかかわらず、なぜこの場面なのだろうか。 さらに、千手と重衡の酒宴場面を描くのであれば、琵琶と琴、あるいは横笛などを描くほうが自然であるのに、それも描かれず、杯も酒もない。なぜこのような描写になったのか。


【考察】

今回取り上げた絵は、千手と重衡を描いたものだと本文には書かれているが、少し疑問が生じた点がいくつかあった。このことを踏まえると、この絵には『平家物語』「千手の前」の場面だけではなく、頼朝と手越少将の出会い・そしてその舞台となった手越宿の姿も投影されているのではないだろうか、と思えてくる。偶然にも頼朝と手越の少将との出会いも酒宴の席。しかも少将も千手も手越の遊女である。この二つの説話には共通することが多くある。頼朝と重衡は鎌倉で会合する。その際頼朝は重衡の堂々とした振る舞いに感激し、源平は朝廷のために争ったけれども、決して源氏は平家を恨み私敵として滅ばしたのではないと告げる。また重衡は頼朝からの丁重なもてなしと千手によって心をほぐされていく。この絵にはそんな二人の立場上相容れない二人の姿を投影しているのではないだろうか。


【参考文献】

『平家物語を知る事典』 日下力 鈴木彰 出口久徳 東京出版 2005年

『現代語で読む歴史文学 完訳 源平盛衰記 七』 西津弘美 勉誠出版 2005年

『平家物語転読 何を語り継ごうとしたのか』 日下力 笠間書院 2006年

『屋代本 高野本対照 平家物語三』 新典社 1993年

『平家物語覚一本新考―八坂流本の成立流伝―』 高橋貞一 思文出版 1993年

『全譯 吾妻鏡』第一巻 貴志正造 新人物往来社 1976年

『長門本 平家物語の総合研究』第二巻 校注篇下 麻原美子 勉誠出版 1999年

『平家物語全注釈』下巻(一) 富倉徳次郎 角川書店 1967年

『延慶本平家物語』 北原保雄 小川栄一 勉誠社 1990年

『日本女性人名辞典』 日本図書センター 1993年

『日本歴史地名大系第22巻 静岡県の地名』 下中直人 平凡社 2000年

『角川日本地名大辞典 22 静岡県』 竹内理三 角川書店 1982年

『吾妻鏡事典』  東京堂出版 2007年

『吾妻鏡人名総覧 : 注釈と考証』 吉川弘文館 1998年

『吾妻鏡地名索引』 村田書店 1977年

『吾妻鏡人名索引』 吉川弘文館 1974年