手越宿

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手越宿は現手越付近にあった平安末期から中世の東海道の宿駅。手越郷はその一帯に比定される戦国期の郷名。 〔手越宿〕治承四年(1180)十月、東下する平維盛軍は「手越駅」に到着、源頼朝軍に敗れて西上するとき「手越宿館」で火災に遭っている。藁科川右岸に位置したため軍勢の移動に関わる記事はほかにも多く、建武二年(1335)七月には西上する足利直義軍が手越駅で北条時行軍の襲来を受けている。東海道を行き交う際に当地に宿泊する事例は鎌倉期に多い。将軍に関する「吾妻鏡」の記述のほか、「海道記」の貞応二年(1223)四月の記事が代表例である。弘長二年(1262)二月二十二日に叡尊は手越宿で泊まって太子講を行い、弘安二年(1279)十月二十五日には阿仏尼が手越に泊まって人の多い様を記し、いずれも翌日藁科川を渡った。なお建久四年(1193)五月、源頼朝は富士野で狩を行った際に旅館に手越ね遊女を召し、手越少将という名の遊女がいたことは有名。貞和四年(1348)十二月十日の足利直義御教書写によると、今川範国に与えられた駿河国国衙領のなかに「手越宿名」がみえ、当宿が独立した所領単位として扱われていた 。