足利義持

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あしかがよしもち。1376―1428。 室町幕府四代将軍。

足利義満の子で、義満が弟義嗣を溺愛できあいしたことに反抗し、義満没後は、義満時代の幕府の慣習を廃して、初代将軍足利尊氏あしかがたかうじ時代の慣習へ戻そうとした。そのため、尊氏時代の芸能の主流であった田楽を愛好し、田楽新座でんがくしんざの役者であった増阿弥ぞうあみを最も後援した。しかし、義満時代に主流であった猿楽を冷遇したわけではなく、世阿弥などの猿楽能の役者も活動を許されていた。

義持は非常に芸能に対する鑑賞眼の鋭い人物だったようで、それに応えるための努力が、世阿弥の芸風や芸論をより豊かなものにしたと見られる。また、義持は、自身もあたかも禅僧のような振舞をして禅文化に傾倒していたが、それが義持時代に書かれた世阿弥の能楽論に禅の強い影響が見られることの要因であると推測されている。あしかがよしもち


画題

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解説

東洋画題綜覧

足利義持、剃髪して道詮といふ、道号顕山勝定院と号した、義満の子で、足利四代の将軍、元中三年の生れで、応永元年父の譲を受けて征夷大将軍を拝し、正五位左中将を任ぜられ、五年また正三位に進み尋で権大納言に転じ、九年正二位に昇叙された、幾干もなくして従一位となり、十六年内大臣となる、二十年称光天皇即位に当り、南朝の遺臣等、両統造立の約に背いたのを憤り所在兵を挙げたが皆撃て平げ、二十六年内大臣を辞し三十年職を子義量〈かず〉に譲り剃髪したが、義量が夭折したので再び将軍職に就いた、正長元年正月十八日薨ず、年四十三、太政大臣を贈らる。  (野史、後鑑)

京都神護寺に国宝足利義持像がある、筆者は不明。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)