日朗

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にちろう


画題

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解説

画題辞典

日朗は日蓮宗六老僧の一人なり、字に大国、筑後房と号す、下総郡の人、幼にして日蓮に従ひ、十六歳出家す、弘長元年より由井濱に監禁さるゝもの三年、又文永八年よリ獄に投ぜらるゝこと四年、其間請うて日蓮を佐渡に省すること八回に及ぶ、日蓮身延山に入る後、鎌倉妙本寺を司り、又池上本門寺を兼務す、文保二年池上に庵居し、元応二年正月二十二日七十八歳を以て示寂す、後光厳院菩薩号を給ふ、

葛飾北斎画く所絵伝あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

日蓮宗の僧、日蓮六老僧の一人、下総本土寺の開山、字は大国、筑後房と号す、寛元三年四月八日下総猿島郡能天村に生る、幼名吉祥麿、父は印東治郎左衛門尉有国といひ、平家千葉の族、有国建長六年鎌倉に於て日蓮に見え、深く帰信し日朗を携へて弟子入した、日蓮ために日朗と名づけた、日蓮が父の喪にあつて郷に帰る時及び駿河の岩本実相寺に到つて大蔵経を閲する時など、いつも日蓮に従つた、文応元年十六歳で得度し弘長元年日蓮伊豆に謫せらるゝや、日朗は官禁により他所に行くことが出来ず、三年間由井ケ浜に居て読経を事とし、日昭に就いて天台の三大部を学び、弘安三年日蓮赦されて母を安房に訪ぬる時、日朗また従ひ、小松原で念仏信徒の難に逢ひ、日蓮傷を被つたので日澄と共に之が看護に努め、竜口の変では日朗右臂を折られて、これから一生右手が不具になつた、日蓮佐渡に流された時は日朗も檀越四人と共に宿屋光則の手に捕はれて獄に下さる、後、請うて日蓮を佐渡に訪ふ事八回、常に米を負つて訪ねたといふ、十一年二月日朗赦され、日蓮亦赦免となる、日朗即ち諜を受けて佐渡に至り日蓮と共に帰つた。大学三郎第地を捨てゝ長興山妙本寺を建て日蓮之を開堂す、日蓮身延に赴くや日朗をして寺の主たらしめ池上の本門寺をも兼ね治めしめた、元応二年正月二十一日池上に於て寂す、寿七十八。

日朗が雪中佐渡に日蓮(日蓮上人)を訪ふの図はよく画題となつて描かる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)