斎藤実盛

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

さいとう さねもり


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

sakBK01-0080-13_27.jpg

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

斎藤実盛、別当と称し鎮守府将軍利仁の後である、世々越前に住す、実盛に至つて武蔵の長井に遷り源義朝に仕へ白河殿及び待賢門の戦に功あり、義朝の歿後平宗盛に仕へ維盛に従て源義仲を北陸に撃つ、是より先、富士川の戦に実盛関東武士の精悍なことを口を極めて唱へたので将士恐れて戦はず走つた事から、特に宗盛に請て、北国はこれ我が故郷願くは一死以て此の役に対し恥辱を雪がんと欲す、古諺にも故郷には錦を着て帰るといふ、願くは錦の直垂を着て身後の栄となさんと、宗盛憐んで之を許した、篠原の戦に味方皆敗走したのに実盛独り止まり奮戦し手塚光盛の為めに討たれた、光盛その首を義仲に見せると、義仲の曰ふ、これは斎藤実盛であらう、我幼時見覚えがあるが髪の黒いのが訝かしといふ、樋口兼光をして見せしむ、兼光潜然として曰く、これ実盛である、平生語つて曰ふ、我年老い力衰え毎に侮りを壮者に取る、他日戦に臨む時は必らず鬚髪を染めて出陣せんと、其の髪を洗ふと果して白髪であつた。実盛時に年七十三。その最期のこと、『源平盛衰記』三十巻に精しい。

木曽打案じて哀武蔵の斎藤別当にや有らん但し其は一年少目に見しかば白髪の糟尾に生たりしかば今は殊外に白髪に成ぬらんに鬢髪の黒きは何やらん、面の老様はさもやと覚ゆ、実に不審也、樋回は古同僚、見知たるらんと召されたり、髻を取引仰て一目打見てはら/\と泣、穴無慙や真盛にて候ひけりと申、何に鬢鬚の黒はと問給へば樋口、されば其事思出られ侍り、真盛日比申置候ひしは、弓矢取者は老体にて軍陣に向はんには髪に墨を塗らんと思ふなり、其故は合戦ならぬ時だにも、若き人は白髪をあなづる心あり、況んや軍場にして進まんとすれば、古老気なしと悪み退時は今は分に叶はずと謗、実に若人と先を諍も憚あり、敵も甲斐なき者に思へり、悲き者は老の白髪に侍り、されば俊成卿述懐の歌に

沢に生る若菜ならねど徒に年をつむにも袖はぬれけり

と読侍るとかや、人は聊の物語の伝にも、後の形見に言葉をば残置べき事に侍り、云ひしに違はず、墨を塗りて候ひけり、年来内外なく申しゝ事の哀さに、樋口次郎兼光、水を取寄せて自ら是を洗たれば、白髪尉にぞ成にけり。  (源平盛衰記)

これを画いたものに左の作がある。

森戸果香筆  紀元二六〇〇年奉祝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)