文公

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ぶんこう


画題

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解説

画題辞典

文公は支那春秋の世の普公なり、曰く重耳、獻公の次子、献公驪姫を嬖し太子申生を殺し、重耳を蒲に伐つ、重耳走りて母の国狄に入る時に歳四十二なり、後獻公薨じ弟恵公立つに及び重耳を殺さんとす、因つて齊に行き又楚に入る會々晋の太子圉秦より逃くるあり、秦之を以て重耳を怨み、重耳を召す。恵公薨じ、圉立ち徳公となるに及び泰の穆公兵を発して重耳を晋に送る、徳公梁に走り重耳位に即く、年六十二なり、即位後、政を修め恵を施し功臣を賞す、是より国強く遂に諸侯の覇者となる、在位九年にして薨ず、文公復帰図は李龍眠の筆あり、立原杏所の摹本あり(市村瓉次郎氏所蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

文公と称するもの。支那古代、秦にあり、晋にもあり、燕にもあるが、有名なのは晋の文公である、晋二十四代の君で、姓は姫、名は重耳、献公の次子、驪姫の難を避けて外に在ること十九年、秦の穆公の援によつて国に入り、君位に即く、時に周の襄王の十六年であつた、此羊襄王赤狄に苦しめられて難を諸侯に告ぐ、謀臣狐偃文公に勧めて曰ふ、諸侯を求むるは勤王に如くなしと、二年文公自ら兵を率ゐて赤狄を破り王を迎へた、五年四月大に楚の兵を破る、襄王命じて伯とした、是に於て文公伯と称し覇権を握つた、九年文王卒し子、襄公歓が位に就いた。

文公は春秋時代の英主であつたから人物画として画かれて来た、古く李竜眠に『文公復帰図』がありと伝へられ、立原杏所の模本を存すといふ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)