文王

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ぶんおう


画題

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解説

画題辞典

支那古代の聖王、名は昌、公季の子にして周武王の父なり後稷公劉の業に遵ひ、公季の法に則り老を敬し少を慈しみ賢を挙げて之に任せしかば四方歸するもの多し、崇侯虎之を殷紂王に僣す、紂即ち姜里に囚へしも釋されて弓矢斧鉞を賜はり征伐を命ぜらる、昌、益々善政を行ひ諸侯愈々歸服す、後岐の下に都し、九十七歳を以て薨ず、爾来政を為すものゝ範とせらる、法隆寺舎利殿の屏風に之を図せるものあり、陸前瑞巖寺に文王の間あり、屏障皆狩野山楽の画く所なり、秋元子爵旧蔵狩野探幽の筆あり、鳳凰麒麟を左右にして三幅對となす。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

西伯昌といふ、都を陝西の鄷邑に移し太公望を用ひ、その策によつて国力を増進し、西方諸侯の長として人望を一身に収めた、その子武王発は殷の紂王を滅し鎬京に都し国を周と号した、共に明王の聞え高い。

土佐光起筆  『文王』  松本双軒庵氏旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


支那古代周の名君、姓は姫、西伯昌、古公亶父の孫、母は摯の任氏の女で賢婦人であつた。伝へ言ふ文王の懐妊中目に悪色を見ず、口に嘘言を吐かず、耳に淫声を聞かず、たゞ胎教天地を敬粛したといふ、徳沢日月の如く四方を潤し仁風慈雨四海を感化し伯夷叔斉太公望呂尚の如き賢人を用ひた、後紂王の為めに姜里に囚へられたが従容自若、学徳を修め後生の教訓たらしめんと八卦を整斉し六十四卦をなしたといふ、九十七歳を以て薨ず。

文王を画いた作

狩野山楽筆           松島瑞巌寺蔵

狩野探幽筆           秋元子爵家旧蔵

海北友松筆  『文王呂尚図』  京都妙心寺蔵

土佐光起筆           松本双軒庵旧蔵

其他極めて多い。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)