太田道灌

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おおた どうかん

1432年~86年。室町時代の武将。扇谷上杉定正の重臣。父は資清入道道真。 永享四年相模国に生まれる。幼名は鶴千代。文安三年元服して資長と名乗り、享徳二年正月、従五位下左衛門大夫に叙任せられ、康正元年十二月、正五位下備中守となり、太田家の家督を継承。翌二年より江戸築城を開始し、長禄元年四月八日に完成したという。道灌は、この年に父道真の指導で、岩槻・河越両越の築城にも着手した。 法名は春苑道灌。実子に文明元年ごろ誕生の資康がいる。道灌の江戸築城によって、江戸は、中世都市として発展した。墓は上糟屋の洞昌院にあり、また下糟屋の大慈寺には、首塚といわれるものがある。



〈参考文献〉

『国史大辞典』国史大辞典編修委員会編 吉川弘文館おおたどうかん


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

太田道灌、名に持資、字は源六郎。道灌は剃髪後の名なり又備中入道とも称す。扇ヶ谷の上杉氏に附属し、長禄元年初めて武蔵野の中央に地を相して江戸城を築き、之に居る、重望を一世に収めて扇ヶ谷の重鎮となり威名東国に高し、山内扇ケ谷両上杉の隙を生ずるや、文明十八年七月上杉定政、敵将上杉顕定の術策に陥り、遂に道灌を糟屋の浴室に殺す、道灌年五十五なり。道灌容貌魁偉、善く謀り善く戦う、兼ねて文学の嗜深く最も和歌に秀づ、初め道灌若き時和歌に通ぜず、武に誇りて旦暮山野に出猟す、一日金澤山に狩し驟雨に会い一弊廬を訪い簑を乞う、その時一少女山吹花一枝を出し微笑して答えず、道灌解せずして帰る、已にして是れ古歌に「七重八重花は咲けとも山吹の みの一つだになきぞかなしき」とあるの意を写せるものなるを知り、大に愧ぢて之より和歌を学び、遂に奥旨を得たりという。雨中山吹花を捧ぐる少女と相対するの状は屡々画かるゝ所なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

太田持資は戦国時代の名将、初の名は資長小字鶴千代、元服して持資と称し、薙髪して道灌と号し備中入道と称す、、幼にして雄偉、、十一歳の時能く文を属す、享徳二年従五位に叙し康正元年家を継ぎ正五位下に進み備中守となり左衛門太夫と称す、持資父子扇ケ谷の上杉氏を扶け衆望を集め、二年江戸城を築く、上杉定正大に持資を用ひ、事大小となく諮詢し兵勢漸く振ふ、長禄二年剃髪し、寛正五年には上洛して将軍義政に見え、又後土御門天皇に謁す、天皇詔して武蔵野隅田川都鳥のことを問はる、道灌

露をかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

年ふれどわがまだしらぬ都鳥隅田河原に宿はあれども

の和歌を以て奉答したので、叡感斜ならず御製を賜はつた、文明五年駿河に乱あつて往てこれを討ち、九年上杉顕定、長尾景春と兵を交ゆるや道灌兵を発して屡々長尾民の兵と戦ひ勝て威名益々振ふ、ここに於て山東の士多く扇ケ谷の上杉氏に属した、上杉顕定大に怖れ定正を術中に陥れて道灌を浴室中に殺さしむ、道灌の辞世に曰く

昨日までまま妄執を入れ置きしへむなし袋今やふりけむ

と、行年五十五。その和歌に志を起すの因をなした山吹の里の物語は載せて『常山紀談』にある。曰く

太田左衛門大夫持資は上杉宣政の長臣なり鷹狩に出て雨に遭ひ、ある小屋に入りて簔をからんといふに、わかき女の何とも物をばいはずして山ぶきの花一枝折りて出しければ、花を求むるに非ずとて怒て帰りしに、是を聞きし人の、それは

七里八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき

といふ古歌のこころなるべしといふ、持資おどろきて、それより歌に志をよせけり。

と、これは抄中後拾遺和歌集の、『小倉の家に住侍るころ雨ふり侍りける日みのかる人の侍りければ、山吹の枝を折てとらせて侍りけりもえでまかり過て、又の日山吹心得ざるよしいひおこせて侍りける返しにいひ遣しける』と題した兼明親王の歌である。

此の山吹の里の物語、大和絵の好画題としてよく画かれる。なほ道灌を画くもの左の作あり。

市原寿一筆  『江戸城創成』  第十一回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)