隅田川

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すみだがわ


画題

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解説

画題辞典

隅田川は東京の東北隅を貫通して東京湾に注ぐ河なり、古くは都鳥の名所として業平が歌に詠まれ、近く江戸時代には、舟遊煙花に歓楽を行る一名所たり、両岸の櫻花亦東台と相並んで四民行業の名区と挙げらる、随って写さるゝ所古来甚だ多し、

東京帝室博物館に菱川師宜、細田榮之、蹄斎北馬等の筆あり、近く川端玉章が筆は東京美術學校に在り。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

(一)隅田川は角田、住田又墨田にも作る、浅草川と同じ、東京市の東方を貫流する江水で、その上流を荒川と云ふ、大凡そ千住より以下を隅田川と呼ぶ、昔は利根川も之に会流してゐた、その広かつた事思ふべく、江戸幕府の初め意を治水に注ぎ、利根の流を他に転ぜしめ水路を変じた今の隅田川は更に荒川の改修により面目を改めた、昔は永代、新大橋、両国、厩、吾妻の五大橋を架したが、大正十二年の大震火災後、白髭、言問、駒形、蔵前、清洲、鬨の六大橋を加へた。なほ東岸隅田堤は桜花の名所であつたが今はその面影なく、唯上流鐘ケ淵辺に昔の名残をとどめて居るに過ぎない。

むさしの国としもふさの国との中にある角田川のほとりに至りて都のいと恋しうおぼえければ、しばし川のほとりにおりゐて思ひやれば、限りなく遠くもきにけるかなど、思ひわびて、ながめをるに、渡守、はや船にのれ、日もくれぬといひければ、舟にのりて渡らんとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なくもあらず、さる折に白き鳥の、はしと足赤き、川の辺に遊びけり、京には見ぬ鳥なりければ、皆人見しらず、渡守にこれは何鳥ぞと問ければ、これなん都島といひけるを聞てよめる。

名にしおはゞいざ事とはむ都鳥わが思ふ人ありやなしやと。  (伊勢物語)

隅田川は江戸名所の一として絵に画かれたもの極めて多い。

鶴岡芦水画  『隅田川両岸一覧』    帝国図書館蔵

安藤広重筆  『東都名所隅田川雪景』  同

渓斎英泉筆  『隅田川落雁』      同

豊国筆    『角田川』        同

細田栄之筆  『隅田川図』       夏目純一氏蔵

山東京伝筆  『同』          田中治之助氏蔵

なほ其他にも数多く、現代の作では鏑木清方に『隅田川舟遊』六曲一双(第八回文展出品)がある。(浅草川参照)

(二)謡曲にも『隅田川』がある、元雅の作で、梅若伝説に取材したもの、我が子梅若丸を失ひ、悲嘆のあまり狂女となつた母が、遥々我が子を尋ねて東に下り、隅田川の渡し船の中で、船人から梅若丸の最後を聞き、空しく墓前に念仏を手向ける筋、シテは梅若丸の母、子方梅若丸幽霊、ワキ舟人、ツレ旅人である。一節を引く。

「今までは、さりとも逢はんを頼みにこそ、知らね東に下りたるに、今は此世になき跡の、験ばかりを見る事よ、さても無慙や死の縁とて、生所を去つて東のはての、道の辺りの土となつて春の草のみ生ひ茂りたる、此下にこそ有るらめや、「さりとては人々、此土を、かへして今一度此世の姿を母に見せさせ給へや、「残りてもかひ有るべきは空しくて、有るはかひなきははきぎの、見えつかくれつ面影の、定めなき世の習ひ、人間うれひの花盛、無常の嵐音添ひ、生死長夜の月の影、不定の雲おほへり、実に目の前の憂き世かな。

「今は何とも御歎き候ひてもかひなき事、たゞ念仏を御申し候ひて、後世を御弔ひ候へ、すでに月出で河風も、はや更け過ぐる夜念仏の、時節なればと面々に、鉦鼓を嗚らしすゝむれば、「母はあまりの悲しさに、念仏をさへ申さずて唯ひれ伏して泣き居たり。

此を画いたものに、山村耕花、竹原嘲風等の作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)