大円禅師

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だいえんぜんし


画題

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解説

画題辞典

大円禅師、名は覺円、鏡堂と号す、宋国西蜀の人、太白山の環渓に禅要を受け、弘安二年仏光禅師と共に我国に渡来し、北条時宗の崇敬を受く、鎌倉禅興寺、浄智寺等に居リ、正安二年京都建仁寺に移り、徳治元年九月、六十三歳を以て寂す、大円禅師と勅謚せらる、甲斐向嶽寺に其の画像あり、国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

大円禅師、名は覚円、鏡堂と号し宋国蜀の人、詩仙白玉蟾の後といふ。夙に峡を出で呉に遊び諸老の門を叩き太白峰に登つて環渓一和尚に参じこれに侍すること数年、祥興二年の春年三十六の時、無学元禅師と舷を同じうして来朝す。執権北条時宗慰労崇敬す。禅師先づ初法を相模の禅興寺に開き、後移つて浄智寺を領し奥州興徳寺の開祖となり、再び禅興寺に帰り十年を経て円覚寺に移り翌年建長寺に入り正安二年京都の建仁寺を董す、禅客来り参じて堂に盈つ、こゝに住すること七年、名声宇内に響き帰依渇仰するもの限なし、年七十に垂んとして滅を建仁寺の正寝に告ぐ、実に徳治元年九月廿六日である。偈あり曰く、『甲子六十三法の人のために説くなし任運自ら去来す天上只一月』と、骨を分ち両塔に蔵む、建長寺にあるを瑞光、建仁寺にあるを霊光といふ、勅して大円禅師と諡す。  (本朝高僧伝)

甲斐の向嶽寺に画像があり国宝たり。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)