二十四孝

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総合

中国における孝行が特に優れた人物二十四名を取り上げた作品。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝では、孝行を特に重要な徳目としていた。この二十四の説話の中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化した物もある。日本にも伝来し大いに模範とされ、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。御伽草子や、寺子屋の教材にも採られた。


【孟宗の筍堀】

孟宗は幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていたが、病気になった母はあれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬、筍が食べたいと言う母のために孟宗は竹林に筍を掘りに行くが、冬にある筈も無い。孟宗は涙ながらに天に祈って雪を掘っていると、あっと言う間に雪が融け土の中から多くの筍が出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。

・「国史大辞典」国史大辞典編集委員会編 吉川弘文間 昭和59年2月にじゅうしこう


画題

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解説

画題辞典

二十四孝は童蒙訓戒の教の為に、支那の至孝二十四名を選定せるものなり。其名左の如し。

大舜、漢文帝、曽参、閔損、仲由、董永、剡子、江革、陸続、唐夫人、呉猛、王祥、郭巨、楊香、朱壽昌、庾黔婁、老萊子、蔡順、黄香、姜詩、王裒、丁蘭、孟宗、黄堅庭

京都南禅寺大方丈仏壇間に狩野永徳の画くものあり、

住吉廣通筆の絵巻あり、

狩野雅樂之介屏風(寺崎廣業氏旧蔵)あり、

其他徳川時代の画家筆する所少しとせず。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那に於ける孝子の物語二十四を集めたもので、山崎美成の『世事百談』には元の郭居業が作であると典籍便覧を引いて書いてゐる、羅山随筆には『俗所謂二十四孝者、嘉語怪異寔非有道之者所述也』といふてゐるが、古く『お伽草子』にも之を載せ、奈良絵本にもこれを画き人口に膾炙されてゐる、『お伽草子』の載する処全文左の通りである。

     大舜

隊々耕春象、紛々耘草禽、嗣尭登宝位、孝感動天心。

大舜は至つて孝行なる人なり、父の名は瞽叟といへり、一だんかたくなにして、母はかだましき人なり、弟はおほいに傲りて、いたづら人なり、然れども大舜はひたすら孝行をいたせり、ある時暦山といふ所に耕作しけるに、かれが孝行を感じて大象が来つて田を耕し、又鳥飛び来つて田の草をくさぎり、耕作のたすけをなしたろなり、扨其時天下の御あるじをば尭王と申し奉れり、ひめ君まします、姉をば娥皇と申し、妹は女英と申し侍り、尭王すなはち舜の孝行なることをきこしめし及ばれ、御娘を后にそなへ、終に天下をゆづり給へり、これひとへに孝行の深き心よりおこれり。

     漢文帝

仁孝望天下、巍々冠百王、漢庭事賢母、湯薬必親嘗

漢の文帝は、漢の高祖の御子なり、いとりなき御名をば恒とぞ申し侍りし、母薄太后に孝行なり、よろづの食事を参らせらるゝ時はまづみづからきこしめし、試み給へり、兄弟も数多ましましけれども、此帝ほど仁義を行て孝行なるはなかりけり、此故に陳平周勃などいひける臣下等、王になし参らせけり、それより漢の文帝と申し侍りき、然に孝行の道は上一人より下万民まで、あるベき事なりとしるといへども、身に行ひ心に思ひ入ることなりがたきを、かたじけなくも四百余州の天子の御身として、かくのごとき御ことわざは尊かりし御こころざしとぞ、さる程に世もゆたかに民もやすくすみけりとなり。

     丁蘭

刻木為父母、形容在日新、寄言諸子姪、聞早孝其親。

丁蘭は河内の野王といふ所の人なり、十五のとし母におくれ、永くわかれをかなしみ、母のかたちを木像につくり、生る人につかふるごとくせり、丁蘭が妻、ある夜のことなるに、火をもつて木像のおもてをこがしければかさのごとくにはれいで、うみ血ながれて二日を過しぬれば、つまの頭の髪が、刀にて切りたる様になりて落ちたる程に驚きてわびごとをする間、丁蘭もきどくに思ひ、木像を大道へうつしおき、妻に三年わびごとをさせたれば、一夜の内に雨風の音して木像はみづから内へ帰りたるなり、それよりしてかりそめのことをも木像のけしきをうかがひたりとなり、かやうに不思議なる事のあるほどに、孝行をなしたるは、たぐひ少き事なるべし。

     孟宗     字恭武或は子恭

涙滴朔風寒、簫々竹数竿、須臾春筍出、天意報平安。

孟宗は幼なくして父におくれ、独の母を養へり、母年老いて常に病みいたはり、食の味もたびごとに変りければ、よしなき物を望めり、冬のことなるに竹子をほしくおもへり、即ち孟宗、竹林に行き求むれども雪ふかき折なれば、などかたやすく得べき、ひとへに天道の御憐みをたのみ奉るとて、祈をかけて大きに悲しみ、竹によりそひける所に、俄に大地ひらけて竹の子あまた生ひ出でけり、大に喜び、則とりてかへり、羹につくり母にあたへければ、母是を食して其まゝ病もいえて齢をのべけり、是ひとへに孝行の深き心を感じて天道より与へ給へり。

     閔子騫

閔氏有賢郎、何曽怨晩娘、尊前留母在、三子免風霜、

閔子騫、幼くして母を喪へり、父また妻をもとめて二人の子をもてり、彼の妻、我子を深く愛して、まゝ子を悪み、寒き冬も葦の穂を取りて着る物に入れて著せ侍るあひだ、身も冷えて堪へかねたるを見て、父、後の妻を去らんとしければ、閔子騫がいふやうには、彼の妻を去りたらば、三人の子寒かるべし、今われ一人寒きをこらへたらば、弟の二人は暖かなるべしとて、父を諌めたるゆゑに、これを感じて継母も、後にはへだてなく愛しみ、もとの母とおなじくなれり、只人のよしあしは自らの心にありと古人のいひ侍りけるも、ことわりとこそおもひ侍れ。

     曽参

母指纔方噛、児心痛不禁、負薪帰来晩、骨肉至情深。

曽参ある時、山中へ薪を取りに行き侍り、母留守にゐたりけるに、親しき友来れり、これをもてなしたく思へども、曽参はうちにあらず。元より家貧しければかなはず、曽参が帰れかしとて、みづから指をかめり、曽参、山に薪を拾ひゐたるが俄に胸さわぎしけるほどに、急ぎ家にかへりたれば、母ありすがたを曲に語り侍り、かくの如く指を噛みたるが、遠きにこたへたるは、ふだん孝行にして親子の情深きしるしなり、そうじて曽参のことは人にかはりて心と心のうへのことをいへり、おく深きことわりあるべし。

     王祥

継母人間有、王祥天下無、至今河水上、一斤臥氷摸。

王祥は幼くして母をうしなへり、父また妻をもとむ、其名を朱氏といひ侍り、継母の癖なれば、父子の中をあしくいひなして悪ませ侍れども怨とせずして、継母にもよく孝行をいたしけり、かやうの人なる程に、本の母、冬の極めて寒き折ふし、なま魚をほしく思ひける故に、肇府といふ所の河へ求めに行き侍り、されども冬の事なれば、こほりとぢて魚見えず、即ち衣をぬぎ裸になり、氷の上に臥し、魚無きことを悲しみ居たれば、かの氷少しとけて、魚二つおどり出てたり、則取りて帰り、母に与へ侍り、是ひとヘに孝行のゆゑにその所には毎年人の臥したる形、氷の上にありとなり。

     老莱子

戯舞学嬌痴、春風動綵衣、双親開口笑、喜色満庭園。

老莱子は二人の親に仕へたる人なり、されば老莱子、七十にして、身にいつくしき衣を著て幼きものゝかたちになり、舞ひ戯れ、又親の為に給仕をするとて、わざとけつまづきてころび、幼きものゝ泣くやうに泣きけり、この心は七十になりければ、年よりてかたち美しからざるほどに、さこそこのかたちを、親の見給はゞ、わが身の年よりたるを悲しく思ひ給はんことを恐れ、また親の年よりたるを思はれざるやうにとの為に、かやうのふるまひをなしたりとなり。

     姜詩

舎側甘泉出、一朝双鯉魚、子能知事母、婦更孝於姑。

姜詩は母に孝行なる人なり、母常に江の水を飲みたく思ひ、又生魚の鯰をほしくおもへり、則ち姜詩妻をして、六七里の道をへだてたる江の水を汲ましめ、又魚の鯰をよくしたゝめて与へ、夫婦ともに常によく仕へり、或時姜詩が家の傍に、忽に江の如くして水わきいで、朝毎に水中に鯉あり、則ちこれを取りて母に与へ侍り、かやうの不思議なることのありけるは、ひとへに姜詩夫婦の孝行をかんじて天道より与へたまふなるべし。

     唐夫人

孝敬崔家婦、乳姑晨盥梳、此恩無以報、願得子孫如。

唐夫人は姑長孫夫人、年たけ、よろづ食事、噛に叶はざれば、常に乳をふくめ、或は朝毎に髪を梳り、其外よく仕へて数年やしなひ侍り、ある時長孫夫人煩ひつきて、このたび死なんと思ひ、一門一家を集めていふ事は、わが唐夫人の数年の恩を報せずして、今死なん事残りおほし、わが子孫唐夫人の孝義をまねてあるならば、必ずすゑも繁昌すべしといひ侍り、かやうに姑に孝行なるは、古今稀なりとて、人みなこれをほめたりと、さればやがて酬あつて、すゑ繁昌する事極まりなくありたるなり。

     楊香

深山逢白額、努力転精風、父子倶無恙、脱身纔甲中。

楊香は一人の父をもてり、ある時父と共に山中へ行きしに、忽あらき虎にあへり、楊香父の命を失はんことを恐れて、虎を迫ひ去らしめんとし待りけれども叶はざる程に、天の御あはれみをたのみ、こひねがはくば、わが命を虎に与ヘ、父を助けて給へと、心ざし深くして祈りければ、さすがに天も哀とおもひ給ひけるにや、今までたけきかたちにて、執りくらはんとせしに、虎俄に尾をすべて逃げ退きければ、父子ともに虎口の難をまぬがれ恙く家に帰り待りとなり、これひとへに孝行の心ざし深きゆゑに、かやうの奇特をあらはせるなるべし。

     董永

葬父貸方香、天姫泊上迎、織絹償債生、孝感尽知名。

董永は幼き時に父にはなれ家貧くして常に人にやとはれ農作をし、賃をとりて日を送りたり、父さて足も立たざれば、小車を作り、父を乗せて田の畦において養ひたり、ある時父におくれ葬礼をとゝのへたく思ひ侍れども、元より貧しければ叶はず、されば料足十貫に身をうり、葬礼を営み侍り、偖かの銭主の許へ行きけるが、道にて一人の美女にあへり、かれ董永が妻になるべしとて、ともに行きて一月にかとりのゝ絹三百疋織りて主のかたへ返したれば、主もこれを感じて董永が身をゆるしたり、其後婦人董永にいふ様は、我は天上の織女なるが、汝が孝を感じて、我を降しておひめを償はせたるなりとて天へぞあがりける。

     黄香

冬月温衾煖、夏天扇枕涼、児童知子職、千古一黄香。

黄香は安陵といふ所の人なり、九歳の時母におくれ父に能く仕ヘて力を尽せり、されば夏の極めて暑き折には、枕や座を扇いで涼しめて、又冬の至つて寒き時には、衾のつめたきことを悲しんで、わが身をもつて暖めて与へたり、かやうに孝行なりとて、太守劉灌といひし人、ふだをたてゝ彼が孝行をほめたるほどに、それよりして人みな黄香こそ孝行第一の人なれと知りたりとなり。

     王褒

慈母怕聞雷、氷魂宿夜台、阿香時一震、到墓遶千回。

王褒は営院といふ所の人なり、父の王義、不慮の事によりて、帝王より法度に行はれ死に付るを恨みて、一期の間その方へは向うて座せざりしなり、父の墓所にゐて、ひざまづき、礼拝して、柏の木に取り付きて泣きかなしむ程に涙かゝりて木も枯れたりとなり、母は平生雷を怕れたる人なりければ、母むなしくなれる後にも雷電のしける折には急ぎ母の墓所へゆき、王褒これにありとて墓をめぐり、死にたる母に力を添へたり、かやうに死にて後まで孝行をなしけるを以て、いける時の孝行までおしはかられて有りがたき事なり。

     郭巨

貧乏思供給、埋児願母存、黄金天所賜、光頼照寒門。

郭巨は河内といふ所の人なり、家貧うして母を養へり、妻一子を生みて三歳になれり、郭巨が老母、彼の孫をいつくしみ、わが食事を分け与へけり、或時、郭巨まさに語る様は、貧しければ母の食事だに心に不足と思へるに其内を分けて孫に賜へば乏しかるベし、是偏にわが子の有る故なり、所詮汝と夫婦たらば子二度有るべし、母は二度有るべからず、とかく此子を埋みて母を能く養ひたく思ふなりと云ひければ、妻もさすがに悲しく思へども夫の命に違はず、彼の三歳なる児を引つれて埋みに行き侍る、則ち郭巨涙を押へて、すこし掘りたれば、黄金のかまを掘り出せり、其釜にふしぎの文字すわれり、其文に曰く、天賜孝子郭巨、不得奪民不得取、と云々、此心は天道より郭巨に給ふ程に、余人取るべからずとなり、則其釜をえて喜び児をも埋まず、ともに帰り弥孝行せりとなり。

     朱寿昌

七歳生離母、参商五十年、一朝相見面、喜気動皇天。

朱寿昌は七歳の時、父その母を去りけり、さればその母をよく知らざりければ、此ことを歎き侍れども、つひに逢はざること五十年に及べり、ある時寿昌官人なりといへども、官禄をもすて妻子をもすてゝ泰といふ所へ尋ねて行き、母にあはせて給へとて、みづから身より血をいだして経をかきて天道へ祈りをかけて尋ねたれば、志の深き故につひに尋ねあへりとなり。

     剡子

老親思鹿乳、身掛褐毛衣、若不高声語、山中帯矢帰。

剡子は親のために命を捨てんとしける程の孝行なる人なり、其故は父母老いて共に両眼を煩ひし程に、眼の薬なりとて、鹿の乳を望めり、剡子もとより孝なる者なれば、親の望をかなへたく思ひ、即ち鹿の皮を著て数多群りたる鹿の中へまぎれ入り侍れば、猟人これをみて実の鹿ぞと心得て、弓にて射んとしけり、其時剡子是は実の鹿にあらず、剡子といふ者なるが、親の望をかなへたく思ひ偽りて鹿の形となれりと、声をあげていひけば、猟人驚きて其故を問へば、ありすがたを語る、されば孝行の志深き故に、矢をのがれて帰りたり、抑も人として鹿の乳を求むればとて、いかで得さすべき、されども思ひ入りたる孝行のおもひやられてあはれなり。

     蔡順

黒椹奉親闈、啼飢涙満衣、赤眉知孝順、牛米贈君帰。

蔡順は汝南といふ所の人なり、王莽といひし人の時分の末に、天下大に乱れ、又飢饉して食事に乏しければ、母の為めに桑の実を拾ひけるが、熟したると熟せざるとを分けたり、このとき世の乱により、人を殺し剥ぎ取りなどする者ども来りて、蔡準に問ふ様は、なにとてふた色に拾ひ分けたるぞといひければ、蔡順ひとりの母をもてるが、此の熟したるは母に与へ、いまだ熟せざるは我がためなりと語りければ、心づよき不道の者なれども、彼が孝を感じて米二斗と牛の足一つを与へて去りけり、その米と牛の腿とを母に与へ、またみづからも常に食すれども、一期の間尽きずしてありたりとなり、これ孝行のしるしなり。

     庾黔婁

到県未旬日、椿庭構病深、願持身代死、北望啓憂心。

庾黔婁は、南帝の時の人なり、孱陵といふ所の官人になりて、すなはち孱陵県へ至りけるが、いまだ十日にもならざるに、忽に胸さわぎしけるほどに、父の病み給ふかとおもひ官を捨てゝ帰りければ、案の如く大に病めり、黔婁医師によしあしを問ひければ、医師病者の糞をなめてみるに、甘く苦からばよかるべしとかたりければ、黔婁やすき事なりとて、嘗めてみければ味よからざりける程に、死ななんことを悲しみ、北斗の星に祈をかけて身がはりにたゝんことを祈りたりとなり。

     呉猛

夏夜無帷帳、蚊多不敢挿、恣梁膏血飽、免使人親闈。

呉猛は八歳にして孝ある人なり、家貧しくしてよろづ心に足らざりけり、されば夏になりけれども帷帳もなし、呉猛みづから思へり、わがころもをぬぎて親に著せ、わが身はあらはにして蚊に喰はせたらば、蚊もわが身を喰ひ親をたすけんと思ひ、即ちいつも終夜裸体になり、わが身を蚊にくはせて、親のかたへ蚊のゆかぬやうにして仕へたりとなり、いとけなきものゝかやうの孝行はふしぎなりしことどもなり。

     張孝、張礼

偶値緑林児、代烹云痩肥、人皆有兄弟、張氏古今稀。

張孝張礼は兄弟なり、世間飢饉の時に八十余の母を養へり、木実を拾ひに行きたれば、一人の民つかれたる者来りて張礼を殺して喰はんと云ふ、張礼云ふ様は、われ老いたる母をもてり、けふはいまだ食事を参らせざりつる程に、すこしの暇を賜はれ、母に食物を参らせてやがて参らん、もし約束をたがへば家に来て一族まで殺し給へと立ちて帰り、さて母に食事を進めて約束の如くに彼の者の所へ至りけり、兄の張孝是を聞きて、又跡より行きて盗人にいふ様は、我は張礼より肥えたる程に食するによかるべし、我を殺して張礼を扶けよと云ふ、又張礼は我はじめよりの約束なりとて、死を争ひければ、彼の無道なる者も兄弟の孝義を感じて、共に死を免し、かやうの兄弟古今稀なりとて、米二石塩一駄とを与へたり、是を取りて帰りいよ/\孝道をなせりとなり。

     田真、田広、田慶

海庭紫珊瑚、群方総不知、春風花満樹、兄弟復同後。

此三人は兄弟なり、親におくれて後、親の財宝を三つにわけてとれるが、庭前に紫荊樹とて、枝葉栄え花も咲き乱れたる木一本あり、これをも三つに分けて取るべしとて、終夜三人詮義しけるが、夜の既に明けければ、木を切らんとて木のもとへ至りければ昨日まで栄えたるが俄かに枯れたり、田真これを見て、草木心ありてきり分たんといへるを聞いて枯れたり、まこと人として、これをわきまへざるべきやとて、わかたずしておきたれば、また再び元の如く栄えたりとなり。

     山谷

貴顕聞天下、平生孝事親、汲泉涓溺器、婢妾豈無人。

山谷は宋の代の詩人なり、今にいたりて詩人の祖師といはるゝ人なり、あまたつかひし人もあり、また妻も有れども、みづから母の大小便のうつはものをとり扱ひて、けがれたる時は手づからこれを洗ひて母に与へ、朝夕よく仕へて怠る事なし、さらば一を以て万を知るなれば、其外の孝行推しはかられたりとて此の人の孝義天下にあらはれたりとなり、この山谷のことは世の人にかはりて名の高き人なり。

     陸績、字公記

孝悌皆天性、人間六歳児、袖中懐緑橘、送母報合飴。

陸績、六歳の時、袁術といふ人の所へ行き侍り、袁術陸績がために菓子に橘を出せり、陸績これを三つ取りて袖に入れて帰るとて、袁術に礼をいたすとて、袂より落せり、陸績どのは幼き人に似あはぬことゝいひ侍りけるが、あまりに見ごとなるほどに家にかへり、母にあたへん為めなりと申し侍り、袁術これを聞きて幼き心にて、かやうのこころづけ、古今希なりとほめたりとなり、さてこそ天下の人かれが孝行なることを知りたりとなり。

『廿四孝』の中で多く描かれるのは、大舜楊香郭巨王祥唐夫人孟宗丁蘭、閔子騫などであるが京都南禅寺には狩野永徳の作があり、元信にも之を画いた屏風(前田家旧蔵及郷男爵家旧蔵)があり、雅楽之助にもある、大舜を描いたもの近く雅邦の作現はれ、楊香を描いたものでは養川院、栄川院の作あり、浮世絵にも国芳がこれを画いてゐる。郭巨には橋本関雪の作(帝国美術院第一回展覧会)がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)