立命館大学アート・リサーチセンター所蔵
浮世絵名品展 第二期 出品目録

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娘道成寺 変化舞踊 解説へ
勝川春亭(中判錦絵1枚)                                         UY0259
「白拍子桜木 市川団三郎」
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寛政11年(1799)5月28日 (江戸)薩摩座
おさなだちむすめどうじょうじ
初稚立娘道成寺(長唄)

白拍子桜木<4>市川団三郎
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寛政11年夏、江戸堺町中の芝居で催された子供芝居を描いた錦絵。江戸の役者絵は通常大芝居を描くものであり、子供芝居を描くものは珍しいが、この興行の際には絵師に勝川春亭、版元に榎本屋という組み合わせで複数の作例が残る。<4>市川団三郎は<4>市川団蔵の養子で、当時弱冠11才だが、早くから大芝居にも出演し所作事の名人と評されていた役者。この時の子供芝居では、スケ(役者の数が揃わない時の応援)として出演した団三郎が好評であった。場面的には、烏帽子を取った後の手踊か、鞠歌の件を描いたものか。おそらく団三郎のあどけなさを表現するため、「道成寺」の中で初々しい娘の演技をする箇所を選んで作画したものであろうが、この場面を描く図は他にほとんど例がなく、初期の「道成寺」のあり方を知る上でも非常に貴重な一枚である。

無落款(大判錦絵1枚) UY0298
「坂東三津五郎」「市川団十郎」「尾上菊五郎」
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文化13年(1816)3月5日 中村座
うめさくらあいおいぞうし                         きょうがのこむすめどうじょうじ
梅桜松双紙 二番目大切  京鹿子娘道成寺(義太夫・長唄)

同宿こんがら坊<3>尾上菊五郎
白拍子さくら木<3>坂東三津五郎
同宿せいたか坊<7>市川団十郎
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「道成寺」の中啓(扇)の舞を描いたもの。この絵は、道成寺上演の度に、顔と役者名を彫り直し、繰返し再版されている。本図は、現在確認できたところでは三回目の出版である。一回目(A版)は文化7年、二回目(B版)は文化9年に出されている。この版の墨版には3人の顔の周辺に改刻の跡がある(団十郎・菊五郎の顔の下の横線、三津五郎の顔の左下の斜め線がわかりやすい)。ここを境目に顔の部分の版木を四角く切取り、新しい版木を埋めて別の役者の顔に差替えたのである。色版の内、二回目以降に失われ、新しく作り直したものがあるらしく、本図では、画面上部の桜の花びらや3人の衣装の模様などが、一回目、二回目とはかなり異なったものとなっている。この版では右下にもともとあった版元印が削除されている。おそらく二回目までを出版した版元平野長右衛門が版木を売却し、それを購入した別の版元から刊行されたものであろう。その上にある「豊国画」も削除されているので、差し替えた顔を描いたのは初代豊国以外の絵師であったかもしれない。

歌川国周(大判錦絵1枚)   shiUY0001
「道成寺」「白拍子 中むら芝翫」「宝年坊 中むら児太郎」
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明治9年(1876)頃 (見立)

白拍子<4>中村芝翫、宝年坊<1>中村児太郎
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金烏帽子を被った白拍子が鐘を見上げ、鐘に対する執着を表現する、鐘見の型を描いたもの。舞台上では赤の衣装で演じられる場面であるが、背景色との関係からか本図では紫の衣装が描かれている。宝年坊として描かれる<1>中村児太郎(後の<5>中村歌右衛門)は、白拍子役の<4>中村芝翫の養子で、親子が一枚に収められた図となっているが、この配役での上演は見当らず見立絵と考えられる。<1>児太郎は、明治9年正月新富座にて、11才で初舞台を踏んだ。養父<4>中村芝翫はその前年、明治8年7月新富座「道成寺真似三面」において白拍子役を演じている。おそらく、<1>児太郎の初舞台を当て込んだ見立絵を描く際に、前年の<4>芝翫の「道成寺」を想起し、親子を白拍子と宝年坊に当てはめたものであろう。

三代目歌川国貞(大判錦絵) shiUY0298,0299,0300
「京鹿子娘道成寺」
「黒雲坊 市川寿美蔵」「白雲坊 市川新蔵」
「白拍子花子 市川団十郎」
「浄永坊 市川権十郎」
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明治23年(1890)3月25日 歌舞伎座
そうまへいしにだいものがたり            どうじょうじ
相馬平氏二代譚 大切所作事 道成寺(常磐津・長唄)

黒雲坊<5>市川寿美蔵、白雲坊<5>市川新蔵
白拍子花子<9>市川団十郎、浄永坊<1>市川権十郎
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「道成寺」の中啓の舞を描いた三枚続き。白拍子が片手に扇を広げ、もう一方の手で片袖をかたげ持つ姿は、「道成寺」の絵としてはもっともポピュラーな構図といえよう。この時の<9>団十郎の「道成寺」は女舞の一世一代として興行され大変評判がよかったようで、『歌舞伎年表』に「無人なりしが団十郎の『道成寺』評よく大入」、『続々歌舞伎年代記』には「今度の大入は全たく此道成寺が半ぶんは見物を呼ぶのでござろう。さすがは俳優の長お手柄のほど恐れ入りたり」とある。中央の白拍子花子のかんざしと扇子、右図の白雲坊・黒雲坊の扇子には真鍮の顔料が用いられており、この絵が摺られた当初はもっと鮮やかな色彩であったと想像されるが、残念ながら真鍮は退色が早く、酸化して黒ずんだ色になってしまっている。

変化舞踊

初代歌川国貞(大判錦絵9枚組の内8枚)
                   UY0203,0204,0201,0205
                      ,0199,0200,0202,0206
「中村芝翫九変化ノ内」
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天保4年(1833)3月3日 中村座
さくらどきはなのよしわら
桜時花吉原 二番目大切
きょうここのえやよいのはなみち
興九重弥生花道(長唄)

文使の娘・老女・丁稚・雨乞小町
  ・夕立雷・越後獅子・契情・座頭
                          <2>中村芝翫
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変化舞踊は、複数の舞踊を組み合わせ、一人の役者が次々と扮装を変えて踊る所作事で、本図の場合は九変化。
ARCにはその内の8枚が所蔵されており、残り1枚は「朱鐘馗」、朱色一色で描かれた鐘馗の図である。他に、この九変化を1枚に3演目ずつ描いた3枚続きもある(参考図)。<2>中村芝翫は<3>中村歌右衛門の養子で、天保7年に<4>歌右衛門となる人物。先代の<3>歌右衛門は変化舞踊を得意とし、<2>芝翫もそれを受け継いだ。本図の九変化はいずれも<3>歌右衛門も踊ったことのある出し物で、特に「文使の娘」から「夕立雷」までは、文化12年・13年(1815-16)に<3>歌右衛門が演じたのと同じ順で構成されている。<2>芝翫は天保4年以前にも、文政9年と文政11年には七変化を、文政13年には九変化を踊っている。

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