C03猿若町と役者

「猿若街細鑑」
絵師:無款 判型:大々判/合羽摺
出版:安政6年1月(1859年)江戸
資料番号:arcSP02-0251 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 猿若町全体の見取り図。水野忠邦による天保の改革時に江戸の芝居関連全てのものを一カ所に集め、芝居町として猿若町が誕生した。猿若町とは猿若勘三郎にちなんだもので、勘三郎は猿若町移転前に初めて興行を認められた劇場の座元であり、常に江戸歌舞伎界を牽引する存在であった。
 本図においては、猿若町の簡略化された見取り図・各座の起源と共に主な役者の所在地について記されている。
 1丁目の中村座は、当初中橋に劇場を構えていたが、劇場が江戸城に近いという理由から移転を命じられ、禰宜町に移り、さらには堺町に移転した。堺町で一端落ち着き、芝居町として栄えることとなる。この時期に専属の茶屋や浄瑠理専用劇場の薩摩座が向かいに劇場を構えていた。2丁目の市村座は当初葺屋町に劇場を構えた。形浄瑠璃専用劇場の結城座も葺屋町に劇場を構え、芝居町を形成した。3丁目の森田座は当初木挽町に劇場を構えたが、休座が多く、猿若町移転時には控櫓の河原崎座が興行していた。控櫓に関しては「呼子鳥和歌三町 全図」にて記述する。
中村座・市村座・森田座は総称して江戸三座と呼ばれ、官許を得た大劇場として各地域で繁栄した。しかし、各芝居町が繁栄すればするほど幕府からは目をつけられる。当時、幕府から遊郭と劇場は二大悪所とされていた。そんな中、天保12年10月7日に堺町の中村座楽屋から出火し、中村座周辺一帯と薩摩座、隣町の市村座と結城座までを巻き込んだ大火災が発生した。この火災を期に幕府は遊郭同様劇場も隔離する方針を打ち出し、天保の改革が動き出す。しかし、実際に芝居に関する全てのものが一カ所に集まったことで、以前に増して芝居町は活気付くこととなった。
 本図の興味深い点は、「三芝居役者仮宅大略」と称して、人気役者の住居の位置を示している点である。江戸の全歌舞伎役者が一カ所に集結したからこそ、この様な摺物が販売されたのだろう。「呼子鳥和歌三町 全図」や「江都名所之内猿若街之図」には猿若町に住居を構える役者についてのみ記載があったが、本図においては猿若町以外の役者についても記載されている。(青)