A1 土蜘蛛退治.

 『古事記』『日本書紀』『常陸国風土記』などに大和朝廷に敵対する土着民を土蜘蛛と呼んでいた記述が残る。しかし、一般に知られる土蜘蛛は、頼光説話の中に取り込まれたものである。
 『平家物語』剣之巻にのる蜘蛛切の名刀の由来話をもとに、能『土蜘蛛』、さらには江戸時代に入って、通俗歴史読本の『前太平記』により、知られるようになった。
 病に伏せている頼光の館に、土蜘蛛の精霊が現れ襲いかかる。頼光が枕元の名刀膝丸で斬りかかると化物は姿を消したが、四天王と独武者平井保昌が血の跡をたどり、北野天神裏の古塚にいた土蜘蛛を退治するというもの。
 別に室町期の成立にかかる『土蜘蛛草紙』の絵巻がある。北野の辺りで髑髏が空を飛んでいくので、そのあとを追い神楽岡の古家にたどり着くと、老婆が繰言を言う。次々と妖怪が立ち現れ、白雲を投げ付ける美女が襲いかかり、頼光は切り付ける。その血を辿ると西山の洞窟に長さ二十丈にも及ぶ土蜘蛛の怪物がいた。これを退治すると数多くの髑髏が出てきたという。
 妖怪屋敷の中で、四天王が碁を打ち、そこに土蜘蛛が現れ、頼光が病鉢巻の姿で斬りかかる参考図のイメージは、歌舞伎「蜘蛛糸梓弦」が早いが、「土蜘蛛草子」と「剣之巻」が融合したものであろう。これを、まず歌川豊春が「浮画 源頼光土蜘変化退治図」で描いた。本図は、それを文政期に大判3枚続にした歌川国長の作品である。
 酒呑童子説話では、頼光らは洞窟を抜けて異界に入るが、土蜘蛛説話では、洞窟の中に住む土蜘蛛やその眷属である妖怪等が頼光館やあばら家に出現するのを追い払っているという違いがある。いわば、土蜘蛛は、酒呑童子退治という本番に備えた前哨戦のイメージを持っているのだろう。
 なお、土蜘蛛を描いた図では、国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」 がよく知られている。こちらは、水野忠邦による天保の改革を批判しているのではないかという噂をよび、当時たいへんな人気を博した。(a).

*国長「頼光と土蜘蛛」(大英博物館,1907,0531,0.524.1-3)【掲出図】

*豊春「浮画 源頼光土蜘変化退治図」(米国議会図書館)
*国芳「源頼光公館土蜘作妖怪図」(ボストン美術館 11.39572a-c)