7.忠臣蔵物TOP

●忠臣一力祇園曙

<建長寺山門>
暦応元年(一三三八)三月、足利将軍直義、鎌倉建長寺に参拝。その役儀として執事高 武蔵野守師直が出仕する。

<大書院>
足利直義の上巳拝礼の為に、建長寺の大書院では、師直、伯州の城主鹽冶判官高貞、桃井和歌助安近、石堂薬師寺らが、拝礼する。師直より、前年極月に鹽冶判官と桃井が勅使の饗応司を勤める事が決定した事を伝えられる。
また師直は、勅使に見せる諸大名の奥方が作った和歌の添削を行う事になる。

<櫻の馬場>
建長寺の桜の馬場において、判官の家来早野勘平が師直方に渡す品に加え、判官の妻かほよの文と添削用の短冊を持参する。しかし文と短冊は、かほよの召使おかるが代筆したものであった。その書状はおかるから勘平、師直の家来である鷺坂伴内から師直へと渡される。
また伴内は、勘平におかるを取持つよう依頼するも、失敗する。

<奥方揃>
建長寺の庭において、仁木の後室漣御前、桃井の妻彌生、糸萩、薬師寺の妻関の戸、かほよなどによって和歌が詠まれ、師直が添削する。

<添削>
師直は奥方の添削をするものの、上の空。今回の目当てはかほよであったが、かほよは師直に対し、横面を叩き出て行く。その姿をみた師直は、かほよではなく代理(おかる)の者が師直と面会したことを悟る。

<鎌倉御所>
師直と薬師寺の会話の最中、鹽冶判官が登城するも、長上下を着け登城。(装束の相違。大紋)、師直に遅参を戒められる。勅使饗応用の料理、三汁十一菜膳部、懸盤を準備されるよう言われていたが、桃井と違っていた(七五三)といった事が次々に起こる。
判官は前日師直に面会を許されず、当日の服装や料理等、故意に桃井とは違った指図を受けた上に罵倒される。さらに判官は、役儀の仕損じは家の瑕瑾とばかり指図を待つが、ここで師直は昨日のかほよの短冊の件を持ち出し、鬱憤を晴らす。
ついに判官は師直に、抜き打ちに真っ向へ斬りつけ烏帽子の頭を二つにする。さらに斬りかかろうとした所で、右馬之丞によって押しとどめられる。この件で判官は網乗物で退出することになる。
勘平は、おかるをかほよの代理にした事によってこの事件が起こってしまった事を悟る。
さらに伴内と勘平が斬り合うが、石堂薬師寺に止められる。

<大星屋敷>
女房お石と力彌の許嫁である小波は、由良介が殉死か籠城かで心配する中、斧九太夫の陰謀で下城させられた力彌から、四・五百人いた諸士もわずか四・五十人になった事を知らされる。
その後由良之助が下城。殉死・籠城ではなく、御用金を配分し、命を全うする決議が下されたことを知る。
城受取の上使、石堂薬師寺が甲冑を着て入城。由良之助らは城を明け渡す。由良之助は、落ち付く場所を山科と決め、城を後にする。

<郊外>
由良之助、原、千崎、竹林などが一堂に郊外へ。名残惜しげに城を見ると、そこには薬師寺達の笑い声が聞こえる。由良之助らは無念の気持ちで、再び城を振り返る。

<川狩>(此處より三十年以前の時候)
河原で、大星民之丞と寺岡平吉は魚を捕っていた。魚が捕れない民之丞に平吉が捕獲方法を教えるが、その事に嫉妬した民之丞は独自で始め、全く捕れずにいた。そして沢山取れた平吉の魚を、民之丞は大星宮内の悴だと言って、全部取り上げてしまう。さらに掛算で平吉の額を打ち、脇差しが竹光であった事に対し、折った上にあざ笑い、屈辱を与える。
額から血を流す平吉に事情を知らない母が大星宮内の所へ行き、薬を貰おうとするが、平吉はそれを受け取らなかった。

<宮内屋鋪>
翌朝、鹽冶の国家老である宮内の屋鋪に、平吉が近づく。言葉巧みに屋敷に入り、民之丞が使う手水鉢の裏に隠れ、起きがけに一討する事を決心する。 
起きがけの民之丞と打合いを始め、平吉が勝利した所で、平吉は父、輿一兵衛に捕えられる。
宮内に打合いの原因を述べた平吉は、親に咎めのない様、宮内に告げ、死を覚悟する。
その後、戸板に乗せられた亡骸を見た與一兵衛達は、この死骸が平吉ではなく民之丞である事を知り困惑する。そこに、上下をつけた子供が現れる。これが平吉であった。
宮内は、大星家の跡継ぎとして平吉を我が子とし、平吉を由良之助義金と改名させる。また寺岡家の跡継ぎとして、宮内の悴(妾腹)である小三郎を養子に出す事を決め、名も平右衛門と改名した。

<祇園の曙>
祇園町に響く、太鼓や三味線。由良之助の行く先を探し歩く寺岡。まどろむ内に、三十年前の由良之助と平右衛門の生い立ちを思い出す。

<縄手>
由良之助、祇園界隈で評判になっており、九太夫は由良之助の行動を探る。また短刀を平右衛門に渡す手はずをつける。

<一力表>
おかるの母が、おかるの娘(小岩)と稚子をつれて縄手筋を歩いている。子供らは勘平との間に生まれた子である。兄の平右衛門は由良之助の影となって働いている。與一兵衛もお北も亡くなり、おかるは一力で勤奉公をしている。平右衛門は偶然会ったおかるに、一力に居続ける由良之助の状態を聞く。
匹夫に渡ってしまっていた、鹽冶判官切腹の際の刀を五十両で売る話があり、平右衛門は小岩を売ることで金を作り、刀を取り戻す。

<一力内>
一力の中で、由良之助は九太夫を会う。九太夫はしきりに仇討ちについて質問するが、由良之助ははぐらかす。会った日は判官逮捕の日であり、由良之助は九太夫に判官の書簡を取り出し(判官を蛸に見立てた上)、蛸を包んで火鉢に入れ、判官が火あぶりになったと喜ぶ。
そこに平右衛門が到着。平右衛門は由良之助に取り戻した刀見せ、受け取るよう勧める。由良之助は受け取らず、逆に投げ出してしまう。その様子を九太夫はそっと立聞きしている。その後平右衛門は由良之助に、判官の遺言と三十年前の遺恨の話をし、現在の状況を戒める。
由良之助はおもむろに一力を離れるが、その後を平右衛門、九太夫が続く。由良之助は門外に出た所で持っていた書状を読み出すと同時に平右衛門は九太夫を殺害する。遊所で殺すことを避けた行為であった。
また平右衛門が持参した刀は偽物で、由良之助が平右衛門の忠心を試していた事がわかる。由良之助は平右衛門に褒美として、薄雲(おかる)と小岩の身代金を出し、そのまま山城に戻る。

<早野村>
三左衛門重義という郷士がおり、そこに病を患った息子勘平が住んでいる。そこへ大星由良之助の書状を持った矢間重太郎がやってくる。重太郎はすぐに京へ戻るが、その後、稚子(三治郎)と三味線を持ち、勘平に会いたいという女がやってくる。三味線を用い身の上を語るこの女がおかるであった。三左衛門は、鹽冶判官の刃傷の代償として、一時おかるに刀を向けるが、後におかるを追い出してしまう。おかるが残していった稚子は、勘平の嫁である梅が育てることになる。
勘平は、由良之助の書状で敵討ちを知るが(病気で死ぬより)師直を欺き艶書の誤りを償うために切腹する。切腹と同時に由良之助が到着するが間に合わない。しかし勘平は、庭前に影のように姿を現し、由良之助に切腹の趣意を語る。勘平の代わりに三治郎が早野勘平光興と名乗り、勘平の霊を背負って義臣の列に加わる。またおかるとお梅もその一行に加わる。

<道行春の富士>
鎌倉への道行、山伏の格好の千崎や、獅子舞の竹森など、徐々に鹽冶の義士達が集まってくる。

<師直屋敷裏門>
鎌倉へ来て二ヵ月が過ぎた極月十二日。焼鳥屋に扮した寺岡が、師直の屋敷の裏門を通り過ぎる。そこへ寺岡の本名を呼ぶ声由良之助がおり、十四日に菩提所である光明寺で参会する事を伝える。また、荷物が舟で到着次第、宿へ届けることを確認する。

<勢ぞろへ>
鹽冶判官の高貞の家臣は、獵舟に乗って移動する。舟を岸の岩根に止め、由良之助が最初に降り、原郷右衛門、大石力彌、竹森喜多八、片山源太と続く。格好は羽織の合い印、いろはにほへとと立ち並ぶ。大鷲文吾はかけ矢の大槌、川瀬忠太夫は半弓を持ち、鹽田赤根は長刀を構える。木村は継ぎ梯子を持ち、由良之助の策で八尺計の大竹に弦をかけた物を持参する。後陣には矢間十太郎、寺岡、二代目早野勘平。その数四十七名。鎖袴に黒羽織、忠義の胸当てで揃え、合い言葉は天と川。
表門から力彌、裏門から郷右衛門、合図の笛を鳴らしたら踏み込む事にし、表裏と別れる。

<敵討>
表門を打ち、門番を難なく縛りあげる平右衛門。その後に続く義士、一家中はあわてふためき逃げまどう。北隣は仁木播磨守。南隣は石堂右馬之丞。
一時の戦いで負傷者は二・三人に対し、敵は数知れず。初代勘平の死霊の力が備わって居る事を知らない薬師寺は、二代勘平を侮どり打ち落とされる。寝所(奥座敷)にいた師直の所に、伴内が駆けつける。師直は伴内の首をかき切り、二重壁袋棚に隠れる。寝所にきた義士達は、師直を見つける事が出来ず、柴部屋へ行く。この柴部屋には大男がおり、我こそ師直といって立ち向かって来るが、実際には医者であった。
屋敷をくまなく探すが、師直は見つからない。よってこの場所で切腹する事になり、銘々が差し添えに手を掛けたものの、鯉口が動かない。それは勘平の死霊が切腹を止めいたものであり、まだ師直が屋敷の中に居る事の証拠と考え、由良之助は再び奥座敷へ駆け寄る。そこで二重壁に気付き、師直を発見する。
由良之助は、師直に鹽冶判官の家臣である事を伝える。、師直は隙を窺い、由良之助を切り付けるが、逆に初太刀を浴び、その後四十余人が師直をずたずたに切り付ける。
最後に由良之助は、菩提所光明寺にある墓前に供えるために、亡き判官の腹切刀を取り出し、師直の首を掻き切る。

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