王維

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おうい


画題

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解説

画題辞典

王維、字は摩詰、支那唐代の人なり、太原に生れ、九歳にして己に辭を屬す、玄宗皇帝の開元中進士に擢でられ、官尚書右亟に至る、故に王右亟の稱あり、弟縉と名を齊うす、安藤山の乱には賊手に捉へられしが、其オを知られて厚遇を受く、乱平ぎて後一たび獄に下されしも、後釈されて授官せらる、時に王維上表してこれの五短と弟縉の五長を挙げ、辞して輞川の別業に隠退す、維其妻歿して娶らず、鰥居三十年、深く佛教を信じ輞川の邸を以て寺となすに至る、上元の初め六十一歳を以て卒す、維詩は詩壇四傑の一人とし天下に轟き、書は草隷に巧に、画は入神の境に入る、最も山水を善くし、當代皆天機の到る處學んで及ばざるものとせり、後世仰いで南宗画の祀となす、東坡曰く、摩詰の詩を味へば詩中画あり、画を見れば蓋中詩あり云々、其の竹林弾琴の図、又輞川別業の図は後世屡々画家の筆に上る所なり。狩野探幽、円山応挙の画あり、明治時代には橋本雅邦、寺時廣業画く所世に知らる。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐代の詩人であり且つ画人、字は摩詰、太原の人、玄宗の開元年中、年十九にして進士に擢でられ、官尚書右丞に至り、弟縉と共に文芸を以て当時に冠絶し支那南宗画の祖と称せらるゝに至つた、其画、其詩共に天性に出で妙神に入る、蘇東坡曽て評して曰く『摩詰の詩を味へば詩中画あり、摩詰の画を観れば画中詩あり』と、晩年輞川なる宋之問が藍田別荘をその有とし琴書自適、悠々その生を終つた、『輞川図』は、その別業を写したもので有名であり、此の外にも『江山雪霽』『維摩示疾』『孟浩然馬上吟詩』『釣雪図』など聞えてゐる。

その竹林に弾琴する処を描いたもの極めて多く、橋本雅邦、寺崎広業に名作があり、王維の画像は曽て小室翠雲之を画き日本南画院に出品した。

もうせん「輞川」の項参照。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)