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総合

二十四孝狐火之図

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絵師:芳年

落款印章:芳年(大蘇印)

版元:佐々木豊吉

出版年:明治25年(1892)

画題:新形三十六怪撰 二十四孝狐火之図


場面:「本朝二十四孝」の「狐火」または「奥庭」と呼ばれる場面。


梗概:

長尾(上杉)謙信の娘の八重垣姫は、武田信玄の長男の勝頼と許嫁である。しかし、両家の仕える足利義晴が暗殺され、日頃上洛を怠っていたとことを理由に信玄と謙信は犯人として疑われる。二人は身の潔白を証明するために、もし義晴の三回忌までに犯人が見つからなかった場合は、両者の長男の首を差し出すことを約束した。ところが三年の月日が流れても犯人を見つけ出せず、勝頼(信玄の息子)は切腹する。しかし、切腹したのは本物の勝頼ではなく、信玄の家臣板垣兵部が昔勝頼と取り替えた兵部の子であった。本物の勝頼は蓑作という車遣いとして生きており、蓑作は、未だ長男景勝に切腹をさせていない長尾側を訝しく思い、花作りとして屋敷に入り込む。長尾の家では、八重垣姫が(偽者の)勝頼の死後、一間に籠って勝頼の絵姿を眺めながらお経をあげる日々を送っていた。部屋の隙間から蓑作の姿を見た八重垣姫は、蓑作を勝頼だと思い驚きつつも駆け寄るが、正体がばれないように勝頼は彼女を冷たくあしらう。しかし、あまりに熱心に勝頼に言い寄る八重垣姫の様子に、勝頼と共に長尾家に潜入していた濡衣(切腹した勝頼の妻)は、蓑作が勝頼であることを打ち明ける。晴れて再会した二人であったが、その直後蓑作は謙信に使いを言いつけられ塩尻へと向かう。蓑作が出発した後、謙信は家来を呼び後を追って討ち取るように言う。謙信は先ほどの勝頼とのやり取りを聞いていたのだった。それを聞いた八重垣姫は、助けてくれるよう頼むが聞き入れてもらえず、謙信は武田の回し者として濡衣を引き立てて去っていく。 八重垣姫は追っ手のことを勝頼に知らせようと思うが、諏訪湖には氷が張って船が出せずなす術がない。後は奥庭にまつられている諏訪法性の兜にすがるしかないと、兜を手に取ると湖に映る自分の顔が狐に変わる。驚いて兜を離し、湖を覗き込むといつもの自分の姿が映る。再び兜を手に取るとやはり狐の姿。これは諏訪明神の使いの狐が兜を勝頼(武田家)に返せということを示しているのだと考え、八重垣姫は狐の加護を得て凍った湖を渡る決心をする。狐憑きとなった八重垣姫の周りには狐火が現れ、兜に導かれるように彼女は湖を渡っていく。


廿四孝」について

諏訪大社について

諏訪明神について


御神渡について

諏訪湖の湖面が全面結氷し、寒気が数日続くことで氷の厚さが増してゆく。さらに昼夜の温度差で氷の膨張・収縮がくり返されると、南の岸から北の岸へかけて轟音とともに氷が裂けて、高さ30cmから1m80cmくらいの氷の山脈ができる。これを「御神渡り」(おみわたり)と呼び、伝説では諏訪神社上社の男神・建御名方神(タケミナカタノカミ)が下社の女神・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)のもとへ通った道筋といわれている。 (中略)また、氷上に人が出ることが許されるのは、神様の通った後というタブーもある。

参照「諏訪湖の御神渡り」([1]閲覧日11/15)

一般的に御神渡りは、上記の通り建御名方神が八坂刀売神のもとに向かった跡であるとされているが、別の言い伝えで諏訪明神の御使である狐の所為だという俗信もある。 『郷土研究』の中の「信州諏訪湖畔の狐」によると、諏訪湖から流下する天龍河畔の川岸村などには、大崎様という祝神がおり、これはヲサキ狐を祀ったものだとされている。

狐の所為だという説について「笈埃随筆 巻之六」には以下のように書いてある。

(前略) 湖水の差出たる諏訪家代々の居城有る所を霞が崎といふ。その大手に橋あり。その橋の下に富士峰の形厳然と水に移る也。毎年極寒になれば、この湖水一面に氷りて、その厚さ計難し。誠に鉄石の如し。故に上下の諏訪、常は三里あるに、此氷の上を真直に行時は僅一里計なり。然れども神使の狐有て、先渡るを考へ、夫よりは重き荷を付たる馬も人も渡るに難なし。


「馬も人も渡るに難なし」という言葉は八重垣姫の台詞の「心易う行き交う人馬」とほぼ等しいと言える。

江戸時代の諏訪湖

諏訪湖は信濃国諏訪盆地の北部にあり、諏訪神社と湖水の景色によって知られ、それに加えて温泉など旅情を慰めるものがあり風景画の題材にもなっている。 右の図は葛飾北斎の「信州諏訪氷渡」

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「浮世絵事典中巻」参考

狐と諏訪明神

上記のような狐の渡り初めの俗説は「本朝二十四孝」の註釈や「郷土研究」(昭和八年発行)、「笈埃随筆 巻之六」にも見られるが、それ以前のもので諏訪明神と狐の繋がりを示すものは見られない。「義太夫全集上巻」にも「氷渡りの事は支那西湖の故事であるのを、恰度諏訪湖へもって来た」とあること、また「本朝ニ十四孝」自体が中国の故事である「二十四孝」に似通わせているものであるということから、「諏訪明神の使いは狐である」というのは近松半二の創作が元であると思われる。


何故狐なのか

「狐-陰陽五行と稲荷信仰」によると、稲荷山には竜頭太という名の竜蛇の山神がいたと伝わっているとある。

また、稲荷大神はもともと五穀をはじめとする全ての食べ物を司る神として信仰されていたが、中世から近世にかけてさらに商業神・屋敷神などの神格を帯びるようになり、現在では日本の神社十一万余りのほぼ、三分の一を占めている。その数の多さから見ても稲荷が人気の高い神であったことが分かる。さらに、伏見稲荷大社の御神符は中央に蛇が描かれている。この御神符について同書の中に

「伏見稲荷大社の御神符は、中央に宇迦之御魂大神、その前に蛇、さらに次に白黒の両狐を配している。それは主祭神としての蛇(宇迦之御魂大神)の古儀を確然と伝承し、しかも蛇神から狐神への祭神の変遷を明示している。」

とある。稲荷大社が蛇神から狐神へと変わったものであれば、蛇神である諏訪大明神の使いとして狐が登場しても不自然ではない。或は、蛇神に代わって、当時人々に親しみのあった狐神を登場させたのだとも考えられる。しかし仮説としては「義太夫全集上巻」にあるように、中国の故事を誤って諏訪湖の話とした流れで、氷渡りの狐が諏訪の蛇神を押しのけて登場したのだという説が一番有力である。


餅鯛稲荷大明神 稲荷御祭神の文献1[2](閲覧日2011.1.31) 『狐-陰陽五行と稲荷信仰』吉野裕子 法政大学出版局 昭和55年6月25日

諏訪法性の兜について

源平盛衰記の伝によると、甲斐の武田信玄は篤く諏訪明神を信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟をたてたとされている。また、信玄は名工明珍信家を甲府に招き、兜を造らせてこれに諏訪南宮法性大明神の神号を刻み、川中島の合戦にもこれを着用したと言われている。現在では下諏訪町の下諏訪博物館に展示されている。

芳年の絵や博物館の諏訪法性の兜は白熊(はぐま)の毛が付いているが、『甲冑と名将』によると、勝頼が白熊の毛の付いた兜を手に入れたとき、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と言っているため諏訪法性の兜が同じ白熊の毛が付いていることには矛盾が生じると指摘されている。また、同書の中に「近松半二作の『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が、獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、こうしたところから後世誤られたものと思われる」ともあり、諏訪法性の兜の外観は後の世に改変された可能性が高い。


諏訪湖博物館・赤彦記念館 諏訪法性兜[3]閲覧日2010/11/20

『甲冑と名将』笹間良彦 雄山閣出版株式会社 一九六六年二月五日

八重垣姫について

歌舞伎では雪姫『祇園祭礼信仰記』、時姫『鎌倉三代記』とともに三姫と呼ばれている。

史実の武田信玄の娘、菊姫がもととなったと言われている。


歌舞伎の劇中では奥庭の場面で芳年の絵と同じように赤い着物(或は紫の着物)に菊の模様をあしらったものを着ていることが多い。その際帯も菊(或は捻り菊)の模様である場合がある。歌舞伎、浄瑠璃共に湖を覗く仕草が二度以上あり、その際兜の持ち方が微妙に変化する。また、二度目に湖を覗き込む所で衣装が白く変わるという演出もあった。 狐火の出現はいずれも衣装変わりの後であった。

参考:「名作歌舞伎舞台」一九七一年、「第一回伝統歌舞伎保存会を観る」、「三代目中村省右衛門七十七年祭追善狂言」、「国立劇場公演 記念録画テープ」一九九二年九月


情報処理推進機構:教育用画像素材集[4]閲覧日2010/11/20

浄瑠璃・歌舞伎の演出の違い

八重垣姫が狐に憑かれる場面での動きが激しくなるのは歌舞伎も浄瑠璃も同じであったが、浄瑠璃の場合は宙に浮いたままポーズをとるという演出もあった。歌舞伎の中にも演出の違いがあり、人形振りで八重垣姫を演じるものがある。また、歌舞伎の場合は花道からはけて行くが浄瑠璃の場合は下手にはけて行く。これは舞台の構造上の違いだと言える。

芳年の浮世絵の特徴

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右の絵は国芳画の「下諏訪 八重垣姫」嘉永五(一八五二)である。兜の前立てが同じ魅(しかみ)=獅子鬼面で、足の格好が芳年のものと線対称となっている。 また、その下の芳滝による八重垣姫明治六年(一八七三)と構図が酷似している。芳滝が国芳の弟子芳梅の門下であったこと、出版年がこちらの方が先であったことから考えて、この芳滝の絵を見た芳年が構図を模倣したのではないかと思われる。

またこの構図は浄瑠璃の八重垣姫の格好と比較してみると、狐憑きの場面でのポーズで片足を高く引き付ける様子とよく似ていると言える。芳滝も芳年も歌舞伎の八重垣姫を描いていると思われるが、構図は浄瑠璃の方が近く、その一場面を切り取って描かれたような印象を受ける。

着物の柄については豊国の八重垣姫が同じように大輪の菊を描いているが、芳年の方は菊の中でも美濃菊や江戸菊、奥州菊と思われる菊を描き分けており、より写実的な表現となっていると言える。

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日本の華「キク」[5]閲覧日2010/11/20

最後に、八重垣姫の首の格好についてだが、芳滝の場合は八重垣姫の向いた目線の先に湖に映った姫の顔が映っているのに対し、芳年のものには何も描かれていない。この場面は、兜を掲げて八重垣姫が湖を覗く場面だが、一回目は兜を裏に持ち、白熊の毛を震えさせながらの演技となっている場合が多い。そこから考えて、芳年のものは兜が裏返しになっている状態で斜め下を向いているので、一回目に湖を覗き込んだ時の八重垣姫を描いたのだと考えられる。この兜が裏の状態で、狐が湖面に描かれていないものには、国周の絵のように目つきが異様なパターンと、手が狐を模した形になっているパターンとがある。

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しかし芳年のものには狐火以外に狐の怪異らしきものは描かれておらず、八重垣姫の手にある兜の白熊が毛先を漂わせているだけである。これは場面の主役を八重垣姫ではなく諏訪法性の兜に憑く狐に設定して描かれたためではないだろうか。


【追記】

国周画の八重垣姫の目を狐憑きの表現と仮定したが、国周画の他の中村芝翫の絵と比べてみると役者の特徴を描いたものだということが分かった。

参考文献

諏訪湖博物館・赤彦記念館 諏訪法性兜[2]閲覧日2010/11/20

『甲冑と名将』笹間良彦 雄山閣出版株式会社 一九六六年二月五日

『日本随筆大成12』日本随筆大成編集部 吉川弘文館 昭和四十九年六月十日

「諏訪湖の御神渡り」([6]閲覧日11/15)

『郷土研究第六冊』郷土会 平文社 昭和五十一年三月三十日

野島寿三郎『歌舞伎・浄瑠璃外題事典』一九九一年七月二十二日 日外アソシエーツ

『戦国人名辞典』戦国人名辞典編集委員会 吉川弘文館 二〇〇六年一月十日

『御伽草子(下)』 1986年3月17日 市古貞次 岩波書店

日本の華「キク」[7]閲覧日2010/11/20

『御伽草子(下)』 1986年3月17日 市古貞次 岩波書店

『日本奇説逸話伝説大事典』志村有弘 松本寧至 勉誠社 一九九四年二月二十五日

情報処理推進機構:教育用画像素材集[3]閲覧日2010/11/20

『日本随筆大成』日本随筆大成編輯部 吉川弘文館 一八七六年十月五日