廿四孝

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『廿四孝』


「孟宗」 孟宗は、幼いときに父を亡くし一人の母を養っていた。母は年老いてついに病気を患い、そのため食べ物の好みが度々変わって、用意しようがないような物を求めたりした。ある冬に、竹の子を欲しがったため、孟宗は竹林に行って探したが雪が深くてなかなか見つからなかった。そこで偏に天の憐れみを頼りにしようと祈りをかけて大いに悲しみ竹に寄り添っていたところ、急に大地が開けて竹の子がたくさん生え出てきた。孟宗は大変喜んで採って帰り、それであつものを作って母に与えた。母はこれを食べると病が治って長生きした。これは孝行の深い心を感じて天が与えたのだ。


「王祥」 王祥が幼いころ母が亡くなり、父は後妻を迎えた。その名を朱氏といった。継母の常で、父と子の仲を悪く言って憎まそうとしたが、王祥は恨まずに継母にもよく孝行していた。継母はこのような人であったので、冬の極めて寒い時に、生魚を欲しがった。そのため王祥は肇府という所の川へ求めに行った。しかし、冬なので氷が張っていて魚が見えない。そこで、服を脱いで裸になり、氷の上に伏して魚がないことを悲しむと、氷が少し解けて魚が二つ躍り出てきた。そこでそれを持って帰って母に与えた。その場所は、毎年人の伏している形が氷の上にあるという。


「郭巨」 郭巨は河内というところの人である。家は貧しく母を養っていた。妻は一人の子を産んで、その子は三歳になった。郭巨の年老いた母はこの孫を可愛がり、自分の食事を分け与えた。或る時、郭巨は妻に「貧しさのため母の食事さえ足りていないと思うのに、それを分けて孫に与えれていればきっと足りないだろう。これは偏に我が子がいるからである。夫婦であるならばまた子は生まれるが、母はそうではない。とにかくこの子を埋めて母をよく養いたいと思う。」と言った。妻もさすがに悲しいと思ったけれど、夫の言うことに従った。そして彼の三歳の子供を引き連れて埋めにいった。郭巨が涙を堪えて少し地面を掘ると黄金の釜が出てきて、それにこう書いてあった。「天は孝子郭巨に与えた。役人は奪ってはならない、民は取ってはならない」意味は、天が郭巨に賜ったものなので、他の人は取ってはならないということである。郭巨等は釜を得て喜び、子供と共に帰り、母にますます孝行を尽くした。



参照:『御伽草子(下)』 1986年3月17日 市古貞次 岩波書店