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総合

江戸土産 浮名のたまづさ 三浦屋揚巻 花川戸助六

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絵師:三代目豊国

判型:大判錦絵

落款印章:任好七十九歳豊国筆

出版年:1864年(文久4)2月

版元:近江屋久次郎

改印:子二改

配役:三浦屋揚巻…二代目岩井紫若 花川戸助六…初代河原崎権十郎

上演年月日:文久2(1862)・3

上演場所:江戸市村座

画題:歌舞伎十八番「助六所縁江戸桜」


【梗概】

 舞台は三浦屋の格子先。満江という老婆が道行く遊女たちに提灯の紋を確認させてもらえるように頼んでいるところを、三浦屋お辰がとおりかかる。 聞いてみれば満江は揚巻を探しているようであるが、そこへ揚巻に恋慕しているかんぺら門兵衛がやってくる。しかし門兵衛は揚巻にまったく相手をされておらず、満江を揚巻と母だと早とちりした門兵衛は、満江に自分と揚巻の中を取り持ってくれるように頼むが、満江が揚巻の母でないとわかると逆上する。そのとき一緒に居合わせた白玉という遊女が、門兵衛を揚巻に会わせてあげると言いその場をまるく収め、満江は事なきを得た。

 そこへ白酒売りの新兵衛がやってき、この酒を飲めばとたんに異性に好意をもたれるとしてお辰たちに酒を売りつける。それを飲んでよっぱらったお辰が周りの誰彼かまわず抱きつきはじめたところで、新兵衛が助六を探していることがわかる。それを聞いた白玉が、またもや新兵衛と助六を会わせると約束をし、場を収める。 (ここまでの筋は現在の上演では省略されている)

 一同が去ったのち、揚巻が多数の取り巻きをつれてほろ酔いの状態で花道から登場する。揚巻の提灯の紋をみた満江が揚巻に話しかけると、揚巻はすぐに満江が助六の母親であることに気づき、周りを遠ざける。満江が言うには、夜な夜な吉原で喧嘩をふっかけている助六をとめてやってほしいということであった。助六との仲を認めてもらう代わりに、揚巻は頼みを受け満江を自分の部屋まで案内させた。そこへ髭の意久がやってきた。揚巻につれない態度を取られた意久は、助六のことを貧乏人じゃ盗人じゃとけなし、そんなやつと一緒にいると揚巻まで盗人になるぞと嫌味を言う。それに腹をたてた揚巻はついにはっきりと、助六と意久じゃ正反対、殺されたとしても助六と添い遂げることを言い切る。それを聞いた意久は思わず刀の柄に手をかけるも、白玉がなんとかその場を収め、揚巻をつれさった。

 ここで花道から助六が登場、意久との顔合わせとなる。助六は意久に足で煙管を渡したり、嫌味を言ったりと喧嘩を売るが、意久は虫けら同然として喧嘩を買おうとはしなかった。そこへ遊郭でひどい接客をされたことからむしゃくしゃしているかんぺら門兵衛が登場し、不満をぶちまけていると通りかかったうどん屋米吉がうどん箱を門兵衛にぶつけてしまい絡まれてしまう。それを見ていた助六が新兵衛をつまみあげるがそれでも反省しないので、うどんを頭からぶっかけた。子分たちもとっちめて痛快な台詞を飛ばしたあとも、新兵衛たちの親分である意久は助六を相手にしない。しびれを切らした助六は下駄を脱ぎ、意久の頭に乗せ、刀を抜け抜けと煽るがそれでも意久は抜かなかった。

 それを見ていた白酒売りの新兵衛は助六に声をかける。助六がよくよく見てみるとそれは実の兄の曾我十郎祐成であった。十郎はこれまで十八年間父親の仇打ちという願いを共に抱いてきたのに、助六が無法な喧嘩ばかりしていることをつよくいさめた。しかし助六は養父がかつて紛失した重宝友切丸を探し出し、養父の難儀を救うためにわざと喧嘩をふっかけて、刀を抜かせていたことを告白する。それを聞いて納得した十郎は助六に喧嘩のしかたを習う。そこへ客と思しき男と揚巻が通りかかり、腹をたてた助六は十郎とその侍にわざと喧嘩を売るが、それは変装した満江であった。兄弟そろって喧嘩をしていることにショックを受けた満江に二人は友切丸のためだと説明をし、許してはもらえたが、紙で作った衣服を助六に着せ、これを母だと思い決して破ってはいけないと言って十郎と去っていった。

 残された助六と揚巻は痴話げんかを始めてしまうが、結局仲直りをし寄り添いあっているとこで揚巻を探していた意久が登場する。揚巻はとっさに自分の打ち掛けの下に助六を忍ばせる。助六の悪態をつき、揚巻を口説こうとしている意久のすねの毛を、隙間から助六が引っこ抜いていると、意久に引きずりだされてしまう。意久が刀を抜き、香炉台をまっぷたつにしたとき、助六は瞬時にそれが友切丸であることを見定めたが意久はすぐに刀をおさめて帰ってしまう。後を追った助六は提灯を切り落とし、太刀打ちのシーンがはじまり、ついに助六が意久を打つ。友切丸を取り返した助六は、騒ぎになった廓を天水桶に隠れてやり過ごす。しかし見つかってしまうが、揚巻に助けられて屋根伝いに逃げていくのであった。


【登場人物】

花川戸助六…吉原の遊女揚巻の間夫。 京島原の遊女揚巻と心中した万屋助六という実在する人物がモデルであるという説もあるが、架空の人物であるという説など他諸説ある。実の名を曽我五郎時致と言い、紛失した友切丸の刀を探し求めて夜毎吉原に通い、喧嘩買いの悪態をついて刀を抜かせるという手法をとっていた。


揚巻…吉原の三浦屋の傾城.である。総角とも書く。京島原の遊女揚巻がモデルであるなど、諸説ある。

【配役】

初代河原崎権十郎

天保9(1838)年~明治36(1903)年9月13日。享年66歳。7代目市川団十郎(のち5代目海老蔵)・母ための五男として江戸堺町に生まれる。生後七日で6代目河原崎権之助の養子となり、初めは河原崎長十郎と名乗り、6歳のとき浅草猿若町に河原崎座が移転の舞台開きで初舞台を踏む。その後嘉永5年9月将軍家に長吉郎が生まれ「長」の字御停止とされたので、15歳で権十郎と名を改める。 文久2(1862)年3月に市村座にて「助六所縁江戸桜」に助六を演じ大好評となる。明治元年に養父河原崎権之助が死去したのち、2年3月にに七代目河原崎権之助を襲名し初座頭となる。7年には河原崎権之助を譲り、九代目市川団十郎を襲名する。

お家芸を本領として、時代物・世話物に適し、立役・敵役・女形を兼ねた。風采がよく、口上・台詞もしっかりして風格があり、非常に文才があり書画骨董にも長じ、社交家であった。

二代目岩井紫若

文政12(1829)年10月2日~明治15(1882)年2月19日。享年54歳。七代目岩井半四郎の子。はじめ子役として岩井久次郎と名乗り江戸の舞台に勤めていたが、天保3(1832)年三代目岩井粂三郎と改める。さらに文久4(1864)年2月には中村座で二代目岩井紫若と改める。明治5(1872)年八代目岩井半四郎を襲名するが、14年正月に新富座に藤の方役を勤めたのち、以後病気がちになる。翌年正月春木座に2~3日勤めたが発病し、2月死去。幕末から明治にかけての若女方の名優であった。

(「歌舞伎人名事典」日外アソシエーツ 2002・6・25)


今回の配役で「助六所縁江戸桜」が上演された記録は「歌舞伎年表第七巻」(岩波書店 昭37・3・ 31)によると、文久2(1862)年3月に初代河原崎権十郎と三代目岩井粂三郎、つまり二代目岩井紫若をそれぞれ助六と揚巻として「助六所縁江戸桜」を市村座にて上演している。この公演当時はまだ粂三郎は紫若を襲名していなかったので、豊国「浮名のたまづさ」は紫若襲名後にこの公演を題材として描かれたものであろうことがわかる。また、粂三郎の紫若襲名の時期と、「浮名のたまづさ」が出版された時期は両方とも文久四年二月であり、紫若襲名のタイミングに合わせて出版されたことが伺える。

【助六の変遷】

内匠理太夫の「大阪千日寺心中物語」の後、このような筋は改変され「大阪すけ六心中物語」となったとも言われ、また、元禄十三年中に多少筋や文句を改めた うえで山本角太夫によって「万屋助六」という題で演じられた。以後、浄瑠璃としては「蟬のぬけがら」「助六心中並せみのぬけがら」などの作品を生み、歌舞伎としては、宝永三年(1706)十一月「助六心中紙子姿」七月「京助六心中」宝永六年七月「助六やつし」享保二年(1717)「万屋助六廓通」などが評判を呼んだ。 上方の出来事であった助六と揚巻の事件を江戸に移したのは二代目市川団十郎がつくりあげた正徳三年(1713)四月上演の「花館愛護桜」であった。またさらに、現行のように助六実は曾我五郎となるのは二代目団十郎が二度目の助六を演じた正徳六年二月「式例和曾我(しきれいやわらぎそが)」からであった。この作で団十郎は鉢巻をしめて傘をもっての出という現行の演出の型をつくっている。つづいて、寛延二年(1716)三月、「男文字曾我物語」の二番目で二代目団十郎は三度目の助六を演じた。

現行のように助六の出に河東節浄瑠璃が用いられるようになったのは宝暦十一年(1761)三月江戸市村座の「江戸紫根元曾我」からで、浄瑠璃の題名を「助六所縁江戸桜」というようになったがのちにそのまま助六劇の題として用いられるようになった。このように助六劇は長い年月をかけて次第に現行の形に近づいてきたものである。

シーンについて

題材は市川家の十八番とされる「助六所縁江戸桜」である。今回の「浮名のたまづさ」では、助六が揚巻の打掛の中に隠れていることから、どこのシーンを描いたかが特定できる。また、注目すべき点としては助六の髪型であり、多くの助六を描いた絵はしっかりと髷を結われているのに比べて「浮名のたまづさ」では助六の髷はバラバラになってしまっていることがわかる。その他に助六の髷が落とされている絵を探すと、意久を打つシーン、もしくは意久を打った後に逃げるシーンが描かれていることが天水桶や梯子の描写から読み取れる。

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白水社「助六所縁江戸桜 寿曾我対面」によると、助六と意久の対決のシーンで、先に助六が意久に後ろから切られるという演出がある。おそらくこの時に助六は髷を一緒に切り落とされており、それゆえこのシーン以後を描いた浮世絵には髷を落とされた姿が描かれていると考えられる。「浮名のたまづさ」には意久の姿も天水桶なども描かれていないが、すでに意久を打ったあとであると髪型から断定することができる。意久を打ったあとに揚巻の打掛のすそに隠れるシーンは、天水桶に身を潜めたあと、廓の若い衆に見つかってしまい、それを見つけた揚巻が駆け寄って助六を裾へ隠すというシーンが存在している。 演目の中盤でも、意久から助六をかばうために、助六を揚巻の打掛の中へ隠すシーンがあるが、「浮名のたまづさ」では演目終盤の廓から脱出する緊張感のあるシーンが描かれていることが伺える。

男伊達としての助六、女伊達としての揚巻

助六といえば、歌舞伎の中でも幡随院長兵衛と並ぶ男伊達とされる人物である。「助六所縁江戸桜」に関する浮世絵は数多く残されているが、今回は配役が「浮名のたまづさ」とまったく同じものに的を絞って見ていきたいと思う。

立命館大学アートリサーチセンター浮世絵検索システムと、早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システムで確認できる範囲では、同配役で助六と揚巻が二人きりで描かれているものは「浮名のたまづさ」も含め掲載した計四枚しか存在しなかった。また、同配役で助六単体や登場人物複数で描かれているものは多数存在したが、そのうちの多くが見得を切っているものであることがわかる。しかし、揚巻と二人で描かれているものを見てみると助六が見得をきっているものはない。むしろ揚巻のほうが助六に付き従うような影の花ではなく、助六を押してさえいるような印象を、構図や揚巻の表情から受け取ることもできそうである。あらすじの中でも、助六がピンチの時には必ずしも揚巻の機転がきいている。

<3>豊国 <1>河原崎権十郎
<3>豊国 <1>河原崎権十郎
芳幾 <1>河原崎権十郎
<3>豊国 <1>河原崎権十郎 <3>岩井粂次郎
国周 <8>岩井半四郎 <9>市川団十郎 明8・4
三代目豊国<3>岩井粂次郎<1>河原崎権十郎

「助六所縁江戸桜」の有名なシーンで揚巻が意久に向かって「慮外ながら三浦屋の揚巻でござんす。男を立てる助六が深間、鬼の女房にゃ鬼神がなると、今からがこの揚巻が悪態の初音。意久さんと助六さんをこう並べてみた所がこちらは立派な男振り、こちらは意地の悪そうな男つき。たとえて言おうなら雪と墨。硯の海も鳴門の海も、海という字に二つはなけれど、深いと浅いは間夫と客、間夫がなければ女郎は闇、暗がりでみても、助六さんと意久さんを取違えて、マよいものかいなア。」と悪態をつく場面がある。また、佐藤恵理(*1)によると「ここで、揚巻の特徴をあげれば、一に笑う大傾城であり、二に助六という貴種を守る若やかな庇護者としての性格となろうか。」「笑う傾城として、もっとも痛快がせりふの一部を掲載した「悪態の初音」の啖呵を切る場面であろう。金の力でときめく意久が助六に互角の女だて、ないし奴傾城の喧嘩場といっていい。」と述べられている。また、悪態をつく場面で現行の坂東玉三郎丈の所作では「今からがこの揚巻が」で、右手に突いていた煙管を下へ離し、「悪態の」で打掛けの襟に両手をかけて肩から外し加減にして、左足の下駄を踏み出し斜にきまると「初音ェ」と張り切っていうという演技になっている。この所作は話の中で兄の十郎が助六に教わる喧嘩の所作と同じであるようで「男伊達」の助六との共通点が見出せる。また、渡辺保(*2)によると「花魁道中で女性が笑うことは禁じられていたんです。(中略)つまり、禁じられたことをあの女は犯している。そこにあるドラマの意味があるんですね。」と述べられている。しかし、揚巻が花道から登場するときに、酔っぱらっており高らかに笑うシーンがある。そのようなタブーを犯すことも、彼女が圧倒的に他の遊女とは違う存在であるという魅力であったのではないだろうか。

おわりに

 このように、「助六」単独としては、弱気を助け強気をくじく伊達男という認識にスポットを当て、それが「見得を切る」という形で強く浮世絵にも描かれていると考えられる。金によって今をときめいている意久を、決して金持ちではない若者が面と向かって啖呵をきる。しかもその若者はこの吉原で一番の傾城の恋人だというのだから、きっと客たちは強い憧れを持っていただろう。しかし、助六と揚巻がふたりいう構図になると、助六の男伊達っぷりは影をひそめ、助六に負けない揚巻の「女伊達」が出てくるのではないだろうか。 また、普段助六は刀を持っている男に喧嘩を売っていくような強気な男であるのに、揚巻にだけは幾度となく守られており、まさに庇護を受けている。そのような、心を許した恋人にだけ見せる伊達男の「裏側」を表現することで二人の仲の深さを表そうとしているのではないだろうか。助六と揚巻がふたりきりで描かれている浮世絵というのは、「助六所縁江戸桜」の中でも二人の恋愛に重点を置いた希少なものだと考えられる。  また、数少ない助六と揚巻ふたりきりで描かれてる浮世絵の中でも「浮名のたまづさ」だけはとりわけ緊迫感のあるシーンを描き出しており、一枚だけ特殊な絵だといえるのではないだろうか。この「緊迫感」すなわちスリルを描き出すことと、二人の恋愛というのがどのように「浮名のたまづさ」に関係して表れているのかを今後の課題としたい。

参考文献

『助六所縁江戸桜 寿曾我対面 歌舞伎オン・ステージ17』白水社 1985/4/1

(*1)佐藤恵里「春な女たち 揚巻」「國文學―解釈と教材の研究―」学燈社 平成19年1月号

(*2)渡辺保「「助六」と吉原―現実の吉原と舞台の吉原―」 「近松研究所紀要第十号」 園田学園女子大学近松研究所 1990/11/30

気谷誠「吉原大門口の助六―立版古による歌舞伎の画証研究―」 「浮世絵芸術百二十二号」 日本浮世絵協会 平成9年1月15日

新藤茂「幕末期の権十郎―初代河原崎権十郎の錦絵表現―」「歌舞伎 研究と批評 22」 歌舞伎学会 1998/12/20