追儺

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ついな


画題

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解説

画題辞典

追儺、一に鬼やらいともいう、我が朝廷年中行事の一にして、毎年十二月晦日、疫鬼を払はんが為めに行われたる一の儀式なり、即ち大舍寮の舍人長方相氏となり、黄金四目の仮面を蒙り、玄衣朱裳し楯と矛を執り、振子という小児八人を随ひて鬼を儺ふ任に当る、鬼の役には舎人之に当る、之を朝廷に行われし式となす、戦国の世に至り廃絶し、僅に各地の神社等にその型を残す、江戸時代に於ては、十二月節分の夜、江戸城中も民間も、共に柊の葉にゴマメの頭を付けて入口に挿み、年男礼装して豆を打ち、鬼を追ふまねす、之を近世追儺とは称したり、

朝廷追儺の式を図せるもの冷泉為恭の筆に成るものあり、江戸時代民間の追儺を画けるもの英一蝶の作あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

年中行事の一、毎年十二月晦日に、疫鬼を払はんがため朝廷で行はせられた儀式、又鬼やらひとも云ふ、晦の夜に行はるゝもので、大舎人寮の舎人が鬼の役を勤め、大舎人長、方相氏の役を勤める、方相氏とは黄金四目の仮面をつけ、玄衣朱裳を着し、右に戈を探り、左に楯を持ち、鬼を儺ふ任に当るものをいふ、別に振子といふ小児八人(内裏式には廿人とある)紺布朱衣末額をつけて之に従ふ、方相氏とは即ち周官である、周礼に『方相氏掌蒙熊衣皮黄金四目玄衣朱裳、執戈掲盾、帥百官、両時儺、以索室欧疫』とある、吾が国の追儺はこれに倣つたものである、此夜戌刻に官人追儺の舎人を率いて承明門外に候し、中務省の処分を待ち、宣陽、承明、陽明、玄暉の四門に頒配し亥の一刻、方相氏を首として親王以下、次に従うて入り、中廷に立つ、陰陽寮儺祭を行ふ、畢りて、方相氏まづ儺声を発し、戈を以て楯を打つこと三遍、群臣唱和し、桃の弓、葦の箭、桃の杖を以て鬼を儺ふ、鬼は四門を廻り滝口の戸を出て去る。日本に於ける追儺の起原は文武天皇の慶雲三年に諸国疫癘あり、百姓多く斃れたので十二月始めて土牛を作り、大儺したこと続紀に見える、だが、恒例の公事と定まつたのは何時の頃か詳かでない、江戸時代の初めには既に廃絶し、唯諸国の神社の祭礼に此式の存したものないでもない。  (国史大辞典)

せつぶんえ「節分会」の項参照。

冷泉為恭筆『年中行事』絵巻にこれが描かれてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)