畜生塚

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ちくしょうづか


画題

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解説

東洋画題綜覧

文禄四年七月十四日、豊臣秀吉、関白秀次の乱行を怒り、官爵を削り高野山に追ひ、遂に秀次をはじめ近侍の人々総てを自尽せしめ同じ年の八月二日秀次の室一の台、若君仙千代丸、姫、百丸、十丸、土丸、その他愛妾等三十余人を三条河原に引出して殺戮したが、三条河原に梟首した秀次の墓は、『文禄四年七月十五日秀次悪逆之塚』と記して余憤を漏らした、この塚星霜を経るまゝに土砂の為め埋没してゐたのを慶長十五年角倉了以が発見し、悪逆の二字を削つて瑞泉寺に移したのが世に謂ふ畜生塚であるが、いま同寺には秀次の生涯を中心に塚の発見から妻妾刑死までを画いた絵巻『畜生塚縁起』を蔵してゐる。なほ『畜生塚』の題で、秀次の妻妾等の最期を画いたものに左の作がある。

井上白楊筆  『畜生塚』     第五回院展出品

板倉星光筆  『畜生塚』     第八回帝展出品

市原寿一筆  『殺生関白物語』  第九回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)