豊臣秀吉

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とよとみひでよし


画題

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解説

画題辞典

「ほうたいこう」(豊太閤)を見るべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

豊臣秀吉は幼名を日吉丸といひ、通称藤吉初め木下、後ち羽柴、更に豊臣と改めた。天文六年尾張国愛知郡中村に生れ、十六歳の時遠江に赴き松下之綱の奴となり幾何もなく織田信長に仕へ屡々武功を建てた、信長その才を愛し頻に登用し三千石を給す、永禄十一年十月京畿守護職となり十二年更に長浜の地一万石を食む、元亀元年四月信長に従ひ越前に朝倉氏を討ち、会々浅井長政其の帰路を絶たうとしたので秀吉之を姉川に破り功を挙げ横山城を賜ふ、天正元年には再び長政を小谷城に囲んで父子の首を挙げ功によつて長政の旧封廿二万石を食む、二年七月筑前守となつた、五年信長西下して毛利氏を討たんとするや、命を奉じて四国に入り浮田直家を降し、毛利氏の属城を陥れ五年にして播、備、美、但、因の五国を平定し九年二月安土に帰つて信長に謁した、更に四月には高松城囲みニケ月にして陥れなほ前進せんとするや、会々本能寺の変あり、秀吉急に和を毛利氏と媾じ軍を返して尼崎に来り織田信孝と会し光秀を山崎に破る、光秀遂に小栗栖に殺さる、因て清洲に赴き信長の嫡孫秀信を擁立して主となし十月従四位下左少府となる、信孝、柴田勝家等秀吉の声望を嫉み之を除かんとしたので、之を賎ケ嶽に破り、勝家を北の荘に自刃せしめ織田信雄をして岐阜城に信孝を殺さしめた、五月参議に任じ従四位上に陛る、十一月には大阪城を築いて之に拠つた、秀吉の勢日に盛にして織田氏はあつても無きに等しい、信雄快からず援を家康に求めたので、家康は小牧山に秀吉と戦つて之を破つた、秀吉は前途に期する処とあつたので家康に和を求め、尋で十三年三月には正二位内大臣となる、五月には長曽我部元親を討つて四国を平げ七月関白となり従一位に叙せられた。併し家康なほ浜松にあつて屈せないので大政所を質とし、妹朝日姫を嫁せしめたので家康遂に上洛して臣礼を取つた、十二月太政大臣となる、十五年には征西の軍を起して島津氏を平らげ十八年には小田原に北条氏を倒し、更に奥羽を攻めて海内を統一した、十九年関白の職を秀次に譲つたが軍国の機務は親しく自ら之を裁決した、文禄元年兵を朝鮮に派して諸道を征し大に明軍と戦ふ、三年秀頼生る、秀吉之に家を譲るの意あり、時に途上秀次不軌を図るの噂を聞き之を高野に自尽せしめ、その妻妾数十人を斬る、此の年、明、和を我に求めて来たが書辞無礼を極めたので之を斥け慶長二年再征の軍を発した、然るに翌三年八月俄に病に罹り伏見城に薨じた歳六十二、遺命して兵を撤せしめ、屍を京都阿弥陀峰に葬つた、詔して正一位を贈り豊国大明神の号を賜ふ。  (野史)

秀吉、気宇宏量、武事の外に風流を愛し、千利休を愛して茶道を隆興せしめ、北野に大茶会を催し、或は醍醐に花見の宴を催し豪奢を極めたなど、よく人口に膾炙する処である。(其項千利休北野大茶湯醍醐花見参照)

秀吉の画像は世に伝へらるゝもの数点ある。

国宝豊臣秀吉像  伊達宗竜氏蔵

同        原富太郎氏蔵

秀吉座像     高野山蓮華定院蔵

伝小野通女筆   京都金戒光明寺蔵

下村観山筆    第五回院展出品

安田靫彦筆    本山竹荘記念展

前田青邨筆    橋永豊次郎氏蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)